信州にて

長野県 善光寺の隣。長野県立美術館 東山魁夷


今年5月末をもって、改装で休館になるという
前にお邪魔してきました
魁夷の、肉筆の日記の公開がありました
東山魁夷は、山の絵で有名であり、この長野県に
東山魁夷館があるというのも、ずっと信州の山々を
描いてきた、東山魁夷が、長野県に生前、絵を寄付した
ということから、設立へとなった、経緯と聞きました


そして、東山魁夷が、山を描くようになった
きっかけというのが、この日記にある、
東京美術学校に在学中に、信州の山をキャンプ旅行
したというのですね
そういう意味で、今回、善光寺の隣で、この日記を
読むというのは、とても、印象に残る、出来事でも
ありました


日記は、兄と、友人と信州を歩く、その姿が
そのまま、本当に一泊の宿を求め、農家に交渉し
一回の食事、ひとつの山のピークを超えるのに
荒天にたたられ、おそらくは、途中生死も、どうなるか
という気持ちと戦いながら、歩いたということが
わかる、文章です

また、父母にあてた、手紙のなかでは、このキャンプ
旅行は、自分が周りの人の支えとなって、いろいろ
やったということが、少し誇らしげに書かれてる
というのも、印象に残りました


東山魁夷の、人としての、印象は、川端康成との
手紙のやりとりをもって、想像しました
また、ヨーロッパの中世から残る、美しい街並みを
描いてる、魁夷の思いというのも、思ってみました


どうも、東山魁夷は、人と相対するときも、絵を
描くべく、景色と相対するときも、ひとつの
ストーリィを思い浮かべて、するのではないか
という気がするのです


木曽の山のなかで、自分がしっかりしなくてはと
仲間に声をかけたり、一歩一歩のふみだしを
強くしていくということ、農家をみつけると
率先して、泊めてもらう交渉をするということ
これも、そうなのです


あるシチュエーションで、自分がこうするということを
ストーリィとして、受け止め、すすんでやっていく
どうも、このキャンプ旅行こそ、魁夷の生き方といったことを
方向づけた、出来事といってもいいのではないかと
思えてきます


川端康成が、奈良、山の辺の道で、倭建命の歌を残し
その隣で、東山魁夷は、天智天皇の歌を、残しています


ひととき、小説家になろうとしたという魁夷の文章は
心を打ちます。川端康成が、自殺し、その報に接して
夜、まっすぐに、九州から、鎌倉にかけつけ
川端の奥さんと、会った瞬間、手をとって、泣いた
というそのときの、自分を、「星離れ行き」という
文章で残しています。おそらくは、そのタイトルは
持統天皇の、歌からとったのではないでしょうか


美を語る、語り続ける、友情といった概念は、とびこえて
なんでしょう、固い師弟愛に結ばれていたとでも
いうのでしょうか?かなり、深いところで、絆を
感じていた、川端康成東山魁夷


人間が、作り出す、芸術といったことに、深い理解
また、強い、期待、愛情があったといっていいのかなと
感じます


そして、やっぱり、そうまでして、大いなる存在の
川端や、東山が愛でた、日本、日本の芸術、少しでも
近い感覚で、感じたいと思わないでいられない
そんな気持ちになるのです