見るということ

市場の女


奥村土牛が描く、絵において、前は素朴さといった
印象で観た、絵。今回みていて、色使いの面白さ
というか、きっと土牛さんは、このコントラストを
表現したくて、描いたのだと、思いました。もちろん
というか解説にもそういうことが描いてあって
ふんふん、とうなづきました


近い、コンセプトの絵にて、海老原喜之助のポアソニエール
というのがあります。州之内徹コレクションです
魚を売る女性のことを、ポアソニエールというのらしいのですが
青い、背景に、なんというか、透き通ったというか
美しい、女性像。


いま、この文章を書いていて、気が付きました
市場の女にしても、ポアソニエールにしても
おそらくは、その女性の存在の素朴さというのが、ひとつの
背景として、あるのだと、いうことです
書きだしに書いた、意味は、素朴さより、色彩だなと
そういう目に入ってきた要素と、そういう意味ですが
色彩を、見せる、その背景として、やっぱり存在が
素朴なことということが、あるのではないでしょうか


たとえば、ゴージャスな雰囲気、を、なにかしら
ビジュアルに表現するとしたら、対象のもつ、贅沢さ
だとか、優美な感じ?だとか、ゴージャスにつながる
なにか、もってる背景を使うのって、有効のように
思います


色彩、を要素として、とりあげるとき、色自体も
大事ですが、服であれば、まとってるその人自身の
存在が醸し出すものも、必ず要素としてははいってくる
のでしょう
ゆえ、海老原の青、奥村の白と茶にしても、
みてる対象の女性の素朴なイメージが背景となっていて
印象づけるということがあるのでは、ないでしょうか


マティスがこの男は色彩をもってる、と、評価した
という青山義雄という画家の展示を、去年みていて
この青山という画家の目は、どこまでも、ずっとみてる
シンプルな思いがあると、気が付きました


マティスが色彩について、認めた、その色彩を
描く、対象について、おそらくは、なにかしらの意図だとか
そういう「混ぜ物」はなしで、花なら花、風景なら風景を
見ること、じっと見ること、そのことのみ、集中できた
そういう人なのではないか


ぐるっとまわって、奥村土牛
姫路城をみつめる、舞妓を見る。枝垂桜をみる
海をみる、山をみる


見る、そのこと、見て、表現したいと思う
その思いの、強さというか、どっしりとした
その感情のつながってるところに、ああと、感動もし
あこがれも、生まれ、奥村土牛さんが、いま
ここで、絵を描いてる、そのこと自体が
うれしい、そんなふうに、感じられるのですね