美術を身近にできたということがうれしい

自分の人生をいっしょに歩む、パートナーが、アートが好きで
美術館に行くのが好きだと、聞きます
そして、実際、いっしょに美術館に行ったりしはじめます


かみさんは、美術館にいって、自分がいいと思った作品に会ったり
すると、とてもうれしく(いまだったら、そこそこわかるのですが)
ルンルンとしてるのです。そのこと、つまりアート作品をみたりして
楽しむということが、まったくいっしょのレベルは無理でも
半分とか、ちょっとは、自分もしたくて、なにかしようと
思ったのですね


きっかけとなったのは、「気まぐれ美術館」 州之内徹 でした
文章が面白い、読みやすいということもあります
でも、一番、絵をみるときのスタンスとして、教わっていいなと
その本のなかで、思えた文章は「絵に対しての、最高の賞賛として
自分の手元におきたい、ということがある。これ以上の賞賛の
しかたはないのだ」ということがありました


目から鱗でした


つまり、美術館で見る、絵でありアートは、たいていはもう世間の評価は
高く、定まっているもの、ということは、知識で知っています
そして、それを見たときに、なにも感じない自分は、自分の
ほうがアンテナが低いというか、いいものを、いいと感じない
自分がなにか、アートの分野では、低い能力しかない、つまり悪いのだ
というどこかで、罪悪感があったのです


ところが、州之内徹が言うところの、鑑賞する自分本位でいいのだ
といったらいいか、自分がほしくなるかどうかで、見ればよいでは
ないかという、声掛けは、いろんな意味で、自由にしてくれました


絵の値段だとか、世間での評価なんてものは、かなりいい加減です
それは、何度もいろんなことを、見ていけば、よくわかります
じゃあ、なにを信じたらいいのか、つまるところ、自分の感覚なのです


そうだし、それから、ビジネスとしてアートを扱うなんてことは
さらさら、考えてないのですから、まず自分が楽しめる、そういう
鑑賞方法をやるべきだし、そうして楽しめるということが、目的で
いいのです


いまでは、自分が書く文章にもそれっぽい指摘をされてしまいそうですが
だいたい、一般の人がわかるようにと(そういう意図のはずと思えるのですが)
解説を書いてあるのだと思うのですが、その解説が、いろんな
前提となる、美術の有名な作家だったり、有名な作品を引用しながら
書いてあることがありますから、そういうことにとてもうとい
人たちには、圧倒されちゃうという傾向があります
まったく知らないと、そんなことも知らないのに、アートを
鑑賞しようなんて、、だめだね、と言われてるようにも感じるのですよ


つい最近、読んだ、ルーブル美術館について書かれてる本の解説に
ある作品を、文章でできれば、詳細に説明しようとすると
いかに難しいかがわかる、といった趣旨のことが描かれていました
そこで、つい、解説を書く人は、誰それのこの作品と比較すれば
こう言えないか、とやるのだと、気づきます


今年は念願かなって、パリで美術鑑賞をしました
そうしたとき、自分が好きな作品をさがす、というスタンスを
ときに忘れそうになりながら、迷ったり、あれ、っと思ったとき
なるだけ、思い出そうとしていました
そこが、迷路にはまりそうなときに、立ち止まれる、唯一の
自分のなかの歯止めになってるようにも、思いました