三十六歌仙

藤原兼輔

人の親の心は闇にあらねども
子を思う道に迷いぬるかな

親の心は闇というわけでもないのに、他のことは何も見えなくなって
子を思う道にただ迷ってしまっております。

藤原高光

かくばかり経がたく見ゆる世の中に
うらやましくもすめる月かな

これほど過ごしがたく思う世の中に、羨ましいことに住み留まり
澄み切って輝いている月であるよ。


藤原元真

年ごとの春の別れをあはれとも
人に後るる人ぞ知るらむ

毎年春のころ、任地に赴く人と別れるのはしみじみ悲しいことだが
取り残されて都に留まる自分を思うといっそうつらい


佐竹本 三十六歌仙絵から

なんと、そのまま現代の人の嘆き、つぶやきを見事に
歌いきってると言っていいほど、古くなっていないと感じる
これが、いわゆる古典性のあるといっていいことなのかと
感じます
(現代語訳は、同展覧会、図録から)


前に、新聞のコラムにて、誰の指摘だったかも覚えていないですが
百人一首が残ってる、これこそ、日本文化のすごさといっていい
ということを、読んでそうなのかな?くらいで留まったことを
思い出します


百人一首と、三十六歌仙の歌は、重なるところ(人や、歌そのもの)
もありますが、ちがいますね。ただ、わたしのようなしろうとの
目からは、とても似てるとも見えてしまいます


不勉強極まりない、ところですが、私が感じたのは
こうした、思いが、ずっと時代をへて、愛でられ、それが
続いてきて、現代につながってるということです
この歌を読んだ人の、感性のすごさといっていいし
続けて愛でてきた、日本人のすごさともいっていい。おそらくは
両方なのでしょうね


京都で、雅な時代の、雅な人がよんだ歌を、味わってみる
正確にはちょっとだけ、ふれてみる(味わうというほど
はいりこんでない、ともいえそうです)というのは
なんて、自分のなかに、その素敵な京都にふれてみたいという
気持ちを喚起させるのでしょうか・・・


京都が好きといって、憚らない自分なのですが、もう少し
京都の京都らしさといったことを、知ってから人に
言おうかな、そんな気持ちがでる、そういう旅になりました