プライドを持つ

はたして、そういうこだわりって、いいものか?
人が育つには、だれかがてまひまかけて、育つための
なにかをすることが、大事のように思います
人が育つ、あることができるようになる。実際、時間が
かかることがそれなりにあるということです


ときどき、1:1で話していて、自分が話してることが
相手に響いているなと、感じると、とても話がいいものに
なりますね。2週間ほどまえだったか、NHKに出演した、京都大学
山極先生は、たとえば、集まって音楽を聴いて、心を共感させる
というのは、人間にしかできない、と言います
そういうふうに、いいな、素晴らしいなということを、共有できる
そういうことが、人を育てるというときに、とても大事だと
思うのです


育った環境、場所、時代が違う人と、なにか同じ、共有できるもの
をさがすというのは、実は大変なのかもしれません


先日、若い社員と話していて、あえて「雑談」を試みたのですね
「アニメ」の話がでました。実際のところ、ゲームについて
話すことは、ほとんどできない私ですが、アニメなら少しくらいは
と思って、話していました
ですが、その若い社員、アニメは「なんでも」好きです、楽しめます
というのです。どうやら、アニメの楽しみ方がちがうのだと
感じます


楽しみ方がちがう、そういうことでいうと、twitterの楽しみ方が
実はまだ、私、板についてないのかな?と、思うことがあります


チャットというのは、そのまま、様子を、書き続けるといった
使い方というのが、あるようにも思うのです
意味があることを、味のあるように書くなんてことは、全然、対極に
あるもの、なのかなとも思ったりします


若い人と話していて、こだわりだとか、プライドって
どうやって、身に着けてもらったらいいかな?なんて、考えてる
ことがあります。だけど、そういうことは、はたして、他人から
あれこれで、持つものとも言えないとも思えてきます


技術者になるのなら、プライドをもってほしい
プライドのある、態度で仕事をしてほしい
これは、おそらくは誰が、どんなときでも、ある、普遍性の
あるといっていい、態度のはずです
だけど、プライドを持つということに、なんていうか土台といっていい
なにかが、欠如してしまうと、そこにいきつくまでの
レーニングなりを、十分しないと、見えてこないということが
起こりそうです


スポーツでも、アートでも、自分がやりたい
そして、自分とはなにか、追っかけたい
そういう、壁にまで到達するまでの、なにかがいる
そして、やっぱりそれは、他人からやってみたら、といった
そういう感覚では、行きつけないといっていいのでは
ないでしょうか?


今日書いたことは、感覚的には、自分たちが20代だったときに
なんとはなくは、知っていたともいえることです
価値観がちがう。そういう人とどうやって、近い土俵でなにかを
するのか?
永遠の課題ともいっていいことのひとつかもしれません


でも、「プライド」
知ってほしいし、知ることで、さらに、自分のなにかを
みつけよう、そういう生き方を、やっぱりしてほしいかな?
アプローチはちがうかも・・・
でも壁に行きついたときは、もっと近づけるようにも思うのです