俳優が語る

いま、大河ドラマ感染症の対策で制作が遅れて
そのぶん、いままでの名場面をそのとき演じた俳優が
語るという番組をやっています


1973年、国盗り物語という、司馬遼太郎原作、平幹次郎と
高橋英樹が主演のものが、なつかしくもあり
印象的でした


高橋、当時28歳、自分に信長が下りてきたようだった
と語りました
つまり、乗り移ってるといってもいいでしょうか?
こういう演じ方ができるというのは、俳優として
素晴らしいとも言えます


直木賞作家、安部龍太郎長谷川等伯で、等伯
松林図屏風を描くとき、それは等伯がなにかに
乗り移られて、まさに神がかりの様子で、いっきに描き上げてる
そういう描写を覚えていますし、書いたあとの安部氏、
自分が等伯を世の中にだすために、いわば、等伯
降りてきて、自分にはいってる感じがした・・・


織田信長にしても、長谷川等伯にしても
ほんとうに、小説以上の人生を生きた、日本史を飾る
ヒーローといっていいでしょう
だから、後世の私たちがあこがれて、その生き方を
みるとき、輝くその軌跡が、自分にはいってくるなんてことは
すごいなと感じます


富山県、福光にいったときに、棟方志功の絵について
不思議な、感覚で眺めることができたのです


棟方志功というと、以前は荒っぽい、前衛というのは
こういうことなのかもしれないが、なにか「なじめない」
絵を描く人だと、思っていたところがありました
でも、松の絵であり(題名を失念しました)、釈迦の十大弟子
板画であり、その迫力あるものを、見て、むむむと
思いました。さらに、柳宗悦が、これは、人間が
どうこうというより、神のみぞしる、そういうレベルの
絵なのだ、と解説で言ってるのを知り、はっとしたのです


棟方志功は、上記に書いた、役者であり、作家も
そうのように、神というなにかが自分というからだを
使って、表現する、そういうことができたのでは
ないか?


ときどき、アートというのは、自分が自分を超える
そういうことの起こることだと、感じることがあります


スポーツでも、ゾーンにはいる、という言い方が
ありますが、自分のそのときもってるものを超えて、力が
だせてしまう、そういう時間をもてるのだと。


俳優は、別の人の人生を、自分のからだを使って
表現するのです。ときに、自分の心がなにものかに
乗り移って、もしくは乗り移られて、表現できる、これは
ひとつの到達点ではないでしょうか