憂い顔の美

マネのフォリー=ベルジェールのバー
この作品をみて、前後して
鏑木清方の三部作をみる、機会があり
まずは、女性の美しさにうっとり、という感じですかね


これらを見る、また1年ほどまえ、ドガのピアノの前のカミュ夫人
という絵に、いいなと思って、立ち止まったことも
思い出します


マネは、裸婦像を、そのまま生きた人間として
描いたということで、センセーションを巻き起こした人
そういう意味では、女性の美を描くならもちろん
一糸まとわぬ姿を描くということの、その良さというか
やりたいと思ったら、やる人でしょう


フォリー=ベルジェールのバーは晩年の作だと
聞きました
マネの、描きたい女性の美しさは、パリを愛した
マネだから、都会の、女性のその生きてる姿そのもの
どことなく、「憂い」がある、表情の女性という
ことかなと思います


この「憂い」という点で、↑に書いた
鏑木清方、特に三部作でいえば、新富町
カミュ夫人、についても、あるんですね
私にしたら、憂い顔の、競演ともみえる、様子です
どうも、憂い顔が美しいというのは、美人の条件と
いってもいいのではないでしょうか
そして、おそらくは、マネもドガも、鏑木清方
その憂い顔した、女性を、女性の持つ美を
愛したといっていいのではないでしょうか?


マネの女性、鏑木の新富町の女性
二人とも、都会で、「働く」女性ですね
それゆえ、でしょうか
働くというのは、やっぱり、楽しいときばかりではない
だいたい、働くそのポジションでいることで
しなければならない、こと、責任がありますね
それも、基本、毎日です
そういう、自分への鼓舞だったり、ときには
やっぱり、疲れみたいなものもあっての、この表情
なのかなと、思います


男性が女性のどんなところに、ひかれるのか
天真爛漫な笑顔もいいかもしれないけど
なにかに、一本、ぴりっとしたものをもった
仕事かもしれない、自分自身へのなにか、生き方に
つながることかもしれない
そうした、思いを、表現したといっていいかも
しれません


都会が、憂い顔、となると、ルノアール
都会のダンス、田舎のダンスが思い出されます
この都会のダンスの女性の美しいこと。また
やっぱり、都会だから?憂い顔です


男性は、女性に惹かれて、なにかするのだと
そういう、ところ、とてもそうだと思いますし
画家なんて、自分が描きたいものを描くのだという
ことでいえば、女性の美を、テーマにするのは
まったく、自然なことでしょうね


そして、その美の象徴たる人が、憂い顔でいる
これまた、ずいぶん、ぜいたくともいえる
また、ずいぶん、凝ったともいえる
瞬間を切り取ったのだと、そういうことに

なるでしょうか