人にどう動いてもらうか

フランス、パリの「ノートルダム寺院」、このノートルダム
聖マリアという意味であり、ノートルダムのつく、教会は
フランスのいろんな場所にある、という説明を、いつか読んで
ああ、そうなのかと、思ったことがあります


なにかそうなのか、というと、教会によくマリア像が
あったりするのは、それを、「ああ、ありがたい」と拝む
信者の姿と一体だなと、想像するのです
そして、教会の名前自体も、聖マリアとつけるということは
その本質といっていいことが、マリア様を拝むことなのだと
感じるのです


振り返って、日本のこと、と、思うと、相当似てると
思うのですが、観音様の信仰というのが、大きなものとして
浮かび上がると思うのです


それは、貧しい、生きていくのが厳しいなか、なにかを
頼りにしてきた、生き方。悔いていることを、懺悔できて
自分ひとりで生きてるのではない、マリア様、観音様が
見守ってくださる、そういう、意識のもと、「生かされてる」
という感覚をもつということ、そのあたりが、教会や寺院の
存在意義だったと、思うのです


こんなふうに書くと、今、観音様を、日常で拝んだりしない
自分は、ともすると、一面、「頼ってる」といったことから
脱却した、進化した存在、なんて思いたくなるのですが
実は、「自分ひとりでは生きられない」「誰かに助けてもらってる」
という事実を、理解できない、退化した存在とも受け取れ
その、精神性の幼稚さということに、思いいたるということも
ありそうです


必ずしも、宗教を自分の身近に考えるということが、いいことと
ここで、書くつもりはありません。つまりは、一人で生きていない
そういう認識、が、大事といっていいでしょうか


二日前の、日経のコラムに、三井不動産の社長だったと思います
リーダーの条件として「人を動かす力を持ってること」と
記述がありました。ああ、なるほどと思いました


人はどうしたら、動いてくれるのか
どう働いてもらうのか?


このことは、管理職だったり、経営層の人なら、必ず自分事として
とらえてることと、感じます
いかに、人を動かす力を磨いていくか?それは本当に大事な
ポイントとして、浮かびます


そうしたことの、大前提に、一人で生きているのではない
一人では生きていけない、そもそもの存在としての、人間がいる
そういう認識がしっかりあるということが、大事ではないでしょうか


そうした、認識が、困ってる人がいれば、なにか自分ができることを
しようという、気持ちにつながり、また、自分がなにかしら、トレーニン
積むなりすることで、人が喜ぶなにかができる、そういう、企業そのもの
といって言い、存在意義のことにつながるように、思います


一方、もう15年も前の、尊敬する経営者、柴田励司氏のセミナーにて
日本の企業の相当数の人達は、集団皿回し状態ですと、聞きました
つまり、忙しすぎるのです。この状態を脱しないと、なにも
はじまらない、そんな風にも、思います


仏様を、拝む気持ちは、人間ひとりでは生きられない、そうしたなか
自分が何ができるのか、改めて問う、そういう前提があって
静かな気持ちをもって、拝む。そういうことを、くりかえしてみたいです