絵を見る

絵を見る楽しみは、いろいろあっていいのだと
思います。その絵そのもの、描いたその技法に、とても
感心するだとか、あこがれるというのは、まさに
正攻法といっていいか、素晴らしいことです
ただ、見るほうに、絵の心得がいるといっていいかなと
思います


なにか、自分の気持ちに、近いものを、感じるというのも
絵、では、もちろんといっていい、あっていいこと
とも思います


成川美術館 高橋新三郎の展示を見ました
高橋の描いた「慈」という作品に目が留まりました
この作品に書かれた、石仏、おそらくは菩薩様と
思われるその、表情がなんとも、やさしく、
私にしたら、自分を赤ん坊のときから、知ってくれてる
親戚のおばさんのように、思いました


日本というか、東洋で、仏様、西洋で、マリア様といった
女性像、もっといえば、「母なるもの」が「拝む対象」
として、必要だったと、気が付いたのは、ここ数年の
ことです
パリに、ノートルダム寺院という、観光名所になってる
寺院がありますが、まえに、新聞で、ノートルダムとは
聖マリアのことを、言う、またノートルダム寺院は、ここ
だけでなく、フランスのあちこちにあると、読みました


それだけ、需要があったというと、なにか大切なマリア様が
商品のような言い方になって、不謹慎かもしれないですが
つまりは、そういう拝む対象が、必要だった、それは
どうも「母なるもの」に近いものだったと、思うのです


高橋新三郎の描いた、菩薩様は、高橋が絵として、描いた
もので、おそらくは高橋が描きたかった、そのなにかが
でているといっていいでしょうね。写実性というのを
重んじたというからには、もとの対象とちがうとは
いわないですが、描きたかった、やさしさとか、まさに
慈悲の心に近いなにかを、表現する、ということ


同じ成川美術館で、もう15年前くらいになるでしょうか
奥村土牛円空仏のスケッチを展示していて、とても
気に入りました。円空というのは、こんなに素晴らしいのか
と思いました。その奥村のスケッチをみてから、そんなに
時間が経っていない、とき、円空仏をリアルに見る機会が
あったのです


なぜか、奥村が描いた、なにかと、ずいぶんずれている
ように、思って、がっかりだったのを、思い出します


どうも、奥村という、人のなにかを通して、伝わってきた
その仏様の、ありがたさといったことは、奥村ならでは
のもの、とも、後で思い返したのです


高橋新三郎の、菩薩様は、奥村のなにかより、絵として
意識されて、描かれてるように、見えました
だけど、それは、自分の好みにあわないということでなく
それはそれで、その心が共鳴する思いがしたのです


絵を見る楽しみというのは、それぞれ、幾通りもあって
いいと思います。楽しんでいるうちに、また世界が
広がるようにも思います