小説を読む

大阪の司馬遼太郎記念館にて、司馬の言葉として
20代の自分への手紙という意味をこめて、小説を書いたと
言ってる、司馬の映像をみました


太平洋戦争末期、招集され、本土決戦のずさんで
民間人を自分たちの戦車で、ふみつぶすというバカげた
作戦をきいて、なんて日本人は愚かになってしまったのかと
思った、絶望した、ということ
そして、いいえ、日本人にも、すばらしい、生き方をした人が
いるということを、つたえたくて、高田屋嘉兵衛坂本龍馬ほか
小説を書くことにしたということ


日本人の、いいえ、人間の愚かさと、すばらしさ
この両方があるということを、小説にしたといっていいのかも
しません


人間の愚かさ。なにかをしようとして、ずっと言い訳をして
やらない、といったこと。いいえ、そうではないと、あらがってる
自分もいるのです。くりかえし、ばかなことをするだけではない
なにかしら、積み上げて、なにかいいことを、人に伝えるとか
誰かが育つということを、後押しするとか、人間としての
すばらしさということを、高めていけると


物事に二面性があるように、愚かなことをする人、素晴らしいことを
する人、その分かれ目は、結構紙一重なのかもしれません


若い人に、なにかしら、きっかけをもって、いい生き方をする
自分が自分であることを、感じながら、社会にむかって、意味の
ある、やり方をする。


実際のところ、司馬遼太郎がそうのように、小説家というのも
自分の生き方から、離れて、作品を書くということは、難しいのかも
しれません。だから、今の世の中で、自分がどう生きてるか
そのことが、ベースになっての、物語ということがありそうです


数年前、1984,という、有名な小説を読みました。実際読んでいて
もう読みたくない、と、思ったときがなんどもありました
その「ディストピアもの」といっていい、ひどい未来予想といった
趣旨の小説を、はじめてよんで、その逆をいくというか、世の中
こんなであってほしいと、願うような、そういう小説のことが
いとおしくなりました


ディストピアものを、読んでみると、おそらくは物語のひとつの
フレームといっていい、なにかしら、「怖さ」だったり「きたなさ」
「ナンセンス」といった、物語の構成上、ほしい、ネガティブなもの
というのが、ああ、と、相対化されて、いき、小説を読みやすくなった
というか、小説が色んな意味で、相対化されたといった、自分の
なかの変化を感じました


こうした、フレームっぽい見方は、まさに小説をつまらなく読む
やり方といってもいいのかもしれなくて、そこにはまりすぎないように
したいとも、思いました


相当数の人が認めてるように、いい本に出会うというのは、まさに
いい旅をすること、といってもいいし、その作者に出会うと
いってもいいかもしれません。生きていればいろんなことに
出会います。ときには、自分の心が、平静を保てない、そんな
ゆさぶられるような、ことも起こりますね
そういったときでも、いかに、自分のするべきことを、忘れない
そうした、いい生き方を貫ける、そういう自分を作りたいものです