人とのつながり

週末に、仕事でつながっている人の、家族の葬儀が
ありました。実際のところ、葬儀に参列するのも
とても、機会が少ないということを、感じます
そして、同じつながりで、40代より下の人の
顔は、見えなかったのですね。つまり、参加しなかった


いろんな、場面で人と人のつながりが、希薄になっていくのを
感じます。葬儀に参列し、実家が農家だという、人と話していて
そんな話にもなりました。田植えだったり、稲刈りだったりで
地域の人が、つながって、いっしょに自分であり、その相手の田んぼの
ことをやるのは、かつては普通。その一緒にいた人の話では
田植えというのは、川の上流から下流に向けて進んでいくという
話をしていました。


実際、「会うのか」ということも、都会だけでない、地方でも
少なくなったという話は、2019年、社員旅行でお世話になった
新潟、南魚沼の農家の民宿、「越路」さんにお世話になったときも
聞いたことでした。60代という、経営する農家の方は
ここ最近(おそらく20年とか)のこと、地域の人と集まって
なにかするということは、なくなってるということでした
まだ、ご自身が若いときは、その地域で、いっしょに仕事するのは
多くあったのに、ということを、話されていました


そんな話で思い出したこと。自分自身、親類で集まるというのが
減ってるのだという感覚と、あいまって、今回葬儀をした、そのご本人も
親戚って、どこまで連絡をするのか、迷ったという話がありました


3年ほどまえに、読んだ、ミッシェル・オバマオバマアメリカの元大統領夫人の
自分自身の回顧の本のなかで、私とほぼ同世代、1960年代とか1970年代に
子どもであり、10代を過ごした、人と、覚えしますが、その子供時代は
(1970年代までは)週末で親戚が集まって食事するのは、習慣だった
という記述がありました


人とのつながりが、希薄になること
これは、人は「楽なほうへ」ということで、行動するということと
くっついてる話だと、認識します
今回、葬儀に参列しない、40代以下の人というのは、特別不義理な
わけではなくて、実際、世の中に家族葬がふえて、そうした
葬儀に参列するという機会が、どんどん減って、身近でそういうことが
あっても、どうする、という判断において、やらないということが
普通になっていってる、ということと、読み解けます


こうした、つながりがなくなってるというのは、「3.11」のことが
あって、それは、やっぱりだめなんだという認識があって
ゆりもどし的に、つながりを、という気持ちになった人いたように
思いますが、そのゆりもどしも、だいぶまた、時間のなかで、風化した
といっていいかもしれません


自分にできることはなにか?
人が生きるときに、つながりをもつというのは、どうしても
必要なことです
一方、世の中の変化について、あらがうというのを、なにかやるということで
つまりは、自己満足だけ、ということになってしまうとすれば、それは
どんな意味があって、どうなのかという、客観視の姿勢ももつ、
ということは大事でしょう


世の中は、変化し、いろんな認識も変化します
その変化をただ、呆然とみてるというのでは、まさに生きてる意味は
減ってしまうように思います


まずは、変化を感じて、おかしいな、これはこわいなということは
発信を続けたほうがいいと、思っています