アートを言葉にしようとしたら

好きになった、モネの絵を人に説明しようとして
はたと、止まります
仮に相手が、絵だったり、印象派なんて、あまり見ないという
相手だったとしたら、モネの良さをどうして、伝えられるでしょう


絵を説明するってことは、ほんとに難しいです
まして、自分が感じてることを、うまく伝えようなんて
思うと、かなり難しいです。「言葉」自体がもつ限界も
思いますし、もちろんそのまえに、自分の言葉を知らないことを
思い知ります


絵の関連で、自分で意識して手に取った本の最初が
洲之内徹の「気まぐれ美術館」でした。そのなかで、著者は
自分の手元においておきたい、と思うということ、これ以上の
賛辞があろうかと、「自分の視点」こそ、絵をみるときに
大事にしたらいいことだと、伝えています


モネの絵
なにがいいか、言葉にするのは難しいです。
今年、香川県地中美術館に行き、睡蓮を自然光のしたでみたとき
12,3年前に同じ地中美術館で、睡蓮をみたとき
今年のほうがずっと、楽しめたという、エピソードを
書いてみました


このことも、自分が伝えたい事の助けになってるかは
おおいにあやしいといっていいです
でも、モネが光の変化をとらえようとしていて、そのことを知って
なぜ、自然光なのかということを、一応はわかって、みた
今年は、ほんとに睡蓮が、いいなと、睡蓮に囲まれてるということが
いいなと思ったのですね


つまりは、説明しようとしてること自体が、あやしいというか
あやういといっていいかもしれないです


アートを楽しむということは、自分を豊かにするということと
いっしょ、といっていいかもしれません


2年前、府中美術館で、与謝蕪村の絵の展示がありました
「ぎこちない」ということを前面にだし、いまふうに言えば
「へたうま」みたいな、良さを感じる与謝蕪村


このへたうまみたいなもの、この府中美術館が最初ではなく
同じ与謝蕪村と、池大雅の競作という、十便十宜図
それから、京都で池大雅の、展示をみたということもつながっています


どこか、古典落語のおかしみに、似てるような
人を楽しませる、表情、また人をもてなすということを、意識した
いろいろ。十便十宜図なんてまさにそうだといっていいと思います


こうした世界観というのが「自分がいいな」があって、与謝蕪村
良さというのが、はいってくるといっていいと思います


アートを楽しめるようになったことは、すごく自分をみつめる
ひとつのツールになったといっていいかなと思います
自分がどうだから、こう感じるみたいなつながりは、面白いです
まして、なかなか言葉にできないといいながら、いっしょに絵をみて
あーでもないこーでもないと、なにか伝えあってみるというのは
楽しくて楽しくて、という時間になります


日本人で、日本の料理を楽しみ、日本の風景を楽しみ
日本の絵を楽しむ
日本に生きた人たちの足跡も楽しむ
こうした、ことをひろげていくと、なんて日本人に生まれてよかったか
となっていきます
モネなどをみれば、やっぱり「日本の」だけでない、ある境地に達した人の
生き方は、共通して、すごいな、なのですが。