言葉を使う

ときどき、言葉を使って、なにかを伝えようとして
その言葉が、相手に届いていないことというのを感じます
なぜでしょうか?


言葉というのは、その言葉を受け取る人の持つ、いろんなことで
ニュアンスが変わってしまうということがあるんだと
あるとき知りました
日本語はまだまだそういったことが、少ないほうと
思ったりもしていましたが、そうでもないと最近思ったり
します


だいたいにおいて、「自分のほうがスタンダード」と思って
人は言葉を発するのだと思います。ですが、立場であり、環境だったり
まわりにいる人などから、そのスタンダードはくるっと
変わるのだと思ったほうがいいと思ったりします


演劇というのは、言葉を知る、というか言葉のいろんな面を
理解するのに、とてもいい活動といっていいです
だから、おそらく、国がつくる演劇学校というのは
その言葉を守ったりしていくのに、必要という認識が
あるのだと思ったりします


演劇をしていて、そのセリフが力を持つということ、感じたりします
そのことが大事とも言えます
言葉は万能ではないし、伝わったかどうかというのは、結構
微妙ともいえるのではないでしょうか?


演劇というのは「対立」があること、というのが条件と
本を読むとでてきます。そう言葉のなかで、行き違いといったことは
常に起こるといっていいのではないでしょうか?対立するわけです


一方、伝わるということは、対立から、合意にいたるということとも
言えて、そこが演劇の面白さともいえるかもしれません


また、言葉は変化するといっていいのでしょう
「なります」みたいな言葉、おかしいと言い切れますか?


自分が、二十代だったとき、言葉がおかしいと言われたことを
思い出します。歌謡曲の歌詞をなぞって、言葉を言ったりして
そんなの、日本語としておかしいと言われました
そういう意味でいうと、いつも若い人というのは、言葉をくずして
使ってるといっていいかもしれません


言葉で、可能な限り、いい伝わり方をしていきたいと今
切実に思います。少なくとも「立場」によるずれというのは
いつも意識して、伝わり方がどうかというのを、気にしたいと
思います


メール、チャットといった、デジタルの文字による、コミュニケーションは
難しいと言います。私もそう思います。だから今のところ、やってる
対処としては、デジタルとアナログを使い分け、また補完する
ように、両方使うということです


アナログ、対面によるやりとり、これにいまのところ勝るデジタルのなにかは
ないでしょう。そうなのですが、必ず対面で、いろんなことをやる
などと決めてしまうと、不自由で、不便でしょう
だから、デジタル、メールもチャットも使うのですが、電話、対面
そして伝言、手紙など、いろいろ使うのが、今のところはいいんだと
思っています


手紙という、ゆるさはいいですよ
ゆるい、だからいつ読むかというのも、こちらにゆだねられてるといって
いいかもしれない。そうするとずいぶん、楽だし、余裕ができますよ


なにかと「効率化」が言われる今
ゆるさ、余裕が大事みたいなことを、ときどき思います