どこまでもいこう

今朝、ウォーキングをしていると
那須塩原にいったときに
やはり、早起きして妙雲寺という寺の
裏山に上りそこの木々のすがすがしさを
思ったことを、思い出す


そのとき、自分のなかにあった「人をどうやって
指導するか」といったまるで、「重し」にも似た
気持ちが、すーっととけていったのを
思い出す


牛にひかれて善光寺まいりという言葉を
本で読んだことと
その寺にあった木々が放つフィトンチッド
私を救った


自分で選んで会社の社長をしているのだから
指導するのはあたりまえ
自分で、人の面倒をみるのが好きだと宣言してる
のだから、指導できてあたりまえ
そんな、決め込みというかずっと思っていたことが
一方的なことだと感じ始めた


思えば、人間は深い複雑な存在でひとりひとりちがう
「アシスト」できるのはそのなかの
ほんのひとにぎりなのでしょう


落ち着いて考えれば気づけることを
ずっと、いわば考えないようにして
自分の選んだ道はこうだ、だから・・・と
肩肘張っていた

牛にひかれて善光寺まいり


無心に生きることで
もしかしたら見えてくるものもあるのか


牛がでてくるのかもしれないね