イメージの共有

仕事をすすめるときに、自分の存在をどうとらえるのか
いいえ、仕事のなかで、ポジションとしての自分が
どう生きるのか、イメージできてるということが
大事です


誰かに仕事をしてもらうとき、その誰かは、自分がいるということで
どう影響するのか、見えてるということが、大事です


昨日、取引先の方と話していて、システムのプロジェクトの
一番高い、統括者として、なにをすべきか。そういう話題に
なりました


正解はないよね、という声も出ました
そうなんでしょうね。どうしたら、人がいきいきと動くのか
正解はない


そのプロジェクトにおいて、動いてほしい人が
どうなのか、それがヒントでしょうか


全然別の局面ですが、あるチームに属してる、サブリーダの
ような人が、世の中の理不尽さに憤る、ということが
日常にあるようだ、そういう話題になりました


学生のときの、ドラマを作ってるとき、ディレクターって
どういう役割だろうと、周りの人と、話をしたことが
ありました
「アート」を人を使って表現しようというとき、ディレクターが
持ってるイメージを、共有してもらわなくてはなりません
そういうとき、わかるまで、説明すること、それが
必要だという意見がでました


たとえば、シェイクスピアをやるのであれば、そのセリフが
なぜ、ああも、まわりくどく、装飾後を使うのか
そのまわりくどく思えるような表現に、ディレクターは
こういうふうに、必要性、そして愛情を感じていて、そのことを
表現してほしいと、伝えよというのですね


ドラマ、身体を使っての表現、ここでの美しさは
あやしさもともなってほしいだとか、ここでの、季節感は
こうだとか、表情はこうあってほしいとか、「きめ」に
なるような、表現は、ディレクターがイメージを
示すのだというのですね


人が作る、ものづくり
そこで、あるべき姿はこうなんだと、主張すること
そして、それは、強引かもしれないですが、人を動かす
なにかになること、大事なのは、認めます
正解はない。正解をみつけるための、なにかを
だすのでしょうね


まあ、それにしても、なんと、リスクと、責任と
ビンビンとある、仕事でしょうか
そこに、建設的なこと、くわわっていくように
誰が配慮するのでしょうか?
少し、頭を抱えるような思いがいたします