人といっしょに食事する

いっしょに、食事をするということ
この共食こそ、人間が人間として、いる、行動の
大本だと、京大の山極先生は、著書のなかでいいます


ほかの動物をみると、食べ物を他の動物に与えるという
行為は、ほとんどみられない。まして、家族で
共食するということはないのだと、説明します


よく二足歩行することが、サルと人間の分かれ目に
なったと、いわれます。もっとふみこんだ研究を
した山極先生は、それだけでない、人間が人間として
こうして進化したもとは、と探ります


さて、いっしょに食事をするということ
ほんとうに大事だと、思います。孤食といわれる
いま、人といっしょに、食事をしない人が増えてる
ということ、すごく、悲しいことだと思います


自分の感覚として、いっしょに食事をして楽しい
ということは、お互いが元気なことを、確かめ
お互いが一定のところ、同じ感覚をもってるという
ことを、喜ぶ、そういうことになると思います
もちろん、それだけでない。共通の話題で、話せば
親しければ、もちろん、それほどまだ、親しくない
という人でも、気づきが生まれて、なにか、自分にとって
創造的な行動のもとに、できる、のではないかという
期待があります


食事をいっしょにするということで、お互いあまりまだ
よく知らないという人だったら、理解しあえるということが
あります
ぎゅっと単純にいえば、おいしい食事を、おいしいといって
笑顔で食事する人に、悪い人はいないというか
少なくとも、信じていいなという要素の相当な割合のものが
そこに、見えてくるといっていいと思います


こうした感覚は、最初に書いた、山極先生の、人間が人間で
いられるというか、そうなってきた、大本に食事をいっしょに
することがある、という、すごく大事な話の、答え合わせに
なってるようにも、思います


人間と人間。いっしょにいるということ、ですでにそういう
ことがある。つまり一定のところ、相手を信頼するという
ことがあるはずです。そして、いっしょに食事をするとなれば
それは一層、高まるといっていいでしょう


人間は誰と食事をするかということで、とても高度な判断
相当、いろんな感覚を駆使して、そのことをするということが
ありそうです


こわいことに、今は感染症のことを、なにかと言い訳に使って
いっしょにいること、いっしょに食事するってことを、なしにして
それで、いいのだという顔をできるという、不思議な状況に
あるといっていいかもしれません


ほんとに、こわいことです
少なくとも、誰と食事するかといった、感覚は相当にぶくなっていって
このままでいれば、そうした感覚は、どこかに忘れていく人も
でてくるのではないか?そんなふうにも、危惧します


人間の基本に帰り、人間として、自分のなかのなにかを高めて
いこうとするとき、他人との関係性というのは、ほんとに大事だし
亡くしたくない、と思います
なにより、楽しいことですしね