つながること、居場所があること

人と交流して、楽しく話すこと。人にお願いすること
あやまること。こうしたことが下手になってると感じ始めた
のは、いつだったでしょう。
大学でレポートを求められたときに、それに近いことを
書いたことを覚えています


こうしたことは、もう世界中であるのだと思っていたほうがいい
少子化、地域社会の疲弊、そういうことが重なり
個人が孤立化し、人とつながらない、つながれない社会と
なっていってるということ


ちょっと横道に入りますが。高校時代の友人のひとりが
今(私と同い年の50代)独身で、孤独かというと
そうでもなくて、家の近くの「行きつけの店」をひとつの
つながりの拠点として、何人かとつながってる
と聞きました。事実、コロナにかかったときなど、食事を
とどけてくれたり、都会の真ん中に住んでいながら
人とつながってる様子が見えてきます


人はひとりでは生きられない
このコロナ、感染症のことでも、はっきりしたといって
いいことがあるのだと、感じます


ですが、数十年前のように、「大家族」「地域としっかり
(べったり)つながってること」という時代を懐かしむとか
その時代のやり方にもどろうとか、それはおそらくは
できないことなのでしょう


いいとこどり、つまり、今の自由さ、しがらみのなさは
それはそれで残し、家族か地域かそれぞれ、そこそこに
つながりをもつというような、そんなふうには
できないものか?


「居場所」ということが、浮かびます
たまに行く「居酒屋」。まさに「居る」ために
その店にいくという、常連さんが見えてきます
寂しさをまぎらわすため、なんとなく、知ってる顔をみれば
ああ、となるし(生存確認とも言えるかも)自分も
確認されることで、いいとなるのでしょうか


居場所というのは、大事で、ここにいればいいんだと
思える場所というのは、欲しいのだと思うのです


ときどき、家族が居場所になっていない場合って
どうするのだろうと、ぞっとしながら、ちょっと想像
したりします。だけど実際はどうにかなってるということも
上の、居酒屋だったり、友人の行きつけの店だったり
ということからも、想像したり、ということもあります


家族が居場所と言える人は、幸せといっていいのかも
しれませんね。


さて、社会力が下がってきてる人を前にして、ちょっとでも
社会力あげられないかと、思います


ひとつ、いままでも少しずつやってるし、これからも
やれば、人とつながるということを、覚えて、実践して
いけるのなかというのが、ワーク・ショップの手法です


「ワールド・カフェ」というワークショップの手法があります
まるで、カフェでくつろいでいるときのように、話すというのが
「ミソ」です。これ、最初に説明をみたときに、その見た瞬間
ああ、なるほど、と思ったのです


まさにこうした、雑談とかふくめ、だれかとゆるくつながってる
そういうことが、今の現代の、また都会に住んでいて
フルタイムで働いていたりすると、少なすぎる、そういう
事実に気が付きます


そう、つながること。ときにゆるく、ときに、ちょっと気をひきしめて
そうしたことを、いっぱい増やしていきたいですね