真摯であること

このまえ、読んだ「もしドラ
もし、高校野球の女子マネージャーがドラッカー
マネジメントを読んだら


もとのネタ本である、ドラッカーの「マネジメント」の
一番最初の引用のキーワード。「真摯であること」
たとえば、議事のすすめかたとか、人を管理すること
面接のしかた、昇進制度などの知識は学ぶことができる
しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することが
できない資質、始めからみにつけていなければならない資質が
ひとつだけある、才能ではない。真摯さである


この真摯であることというのが
私の頭のなかで、くりかえしでてくる
いま、真摯であることということが
じわーっといっぱいになってる


なにをやるのにも、真摯さがかけていないか
食事を作るにしても、もちろん電話で、
会って、顧客と話したその態度が、まさに社員と
そのプロジェクトの状態であり、今後の予想を
話してるその態度が、「真摯であるか」と問い続ける


それは、悪いこととではない
むしろ、いいことかもしれない
ただし、と思う
おそらく、社員と話していても、顧客と話していても
ときには、一番心をくだくべきは、相手の状態を
しっかりみて、イマジネーションを働かせて
自分の意見をいうとかいわないとか、ひとこと、
ねぎらいの言葉をいったほうがいいかとか
判断して行動することだと思う
いかに自分が真摯であるかということに
気持ちが第一にいっていては、どうなのか


また、自分がというときに、無意識に
相手にも、「真摯であること」を求めてるということに
気が付く
相手は、ある意味どうでもいいではないか?
うん?
どうでもいいかどうかは別の議論からかもしれない
少なくとも、こちらから、真摯であれと強要する
ようなことは、避けたいではないか
ところが、あまり真摯にしてますということばかりが
鼻につくと、相手にも強要すると似たことにならないか


などと、もやもやと思う
いま、私の頭は、真摯であるといういわば呪縛に
ちょっととらわれているといっていいかな