ツィッター

ツィッターの楽しさはいくつもあるのだと
思います。ひとつめは気にったと思う人の
つぶやきを、その場でみれるということでしょうね


いい感じで、仕事だったり、プライベートだったり
過ごしていて、その人のちょっとしたつぶやきに
ふれるのは、こちらの気持ちが和んだり、ときには
ぴりりと、いい刺激になったりということで、楽しいです


すでに何度も、メディア?とかで伝えられてるように
ところどころ、デモみたいなものの、呼びかけも
ツィッターでなされるということも聞きました


最近、気になってること。人が行動する、ここに書いてる
ことでいえば、ツィートする、またはリツィートする
そういう行動することも含むとして、行動するということは
単に「理解する」だけではない、そこに、わくわくするとか
それ以外でも、感情が伴うからだと、読んだ本に書かれています


上記にふれた、「デモ」といったことでいば、もうデモを
するような、危機感だとか、思いが先にあって、ツィートを
みて参加するという流れなのかなというように、思います


ツィッター、仕事をしながら合間に、みるとそれなりに
楽しいなということが、ありますね
「今」を切り取ってるからということが、あるのかも
しれません
実際、コロナという怖い病気に相対して、どうするという
感覚がある、今、ツィートでそうしたことを、みる
というのは、ひとつの安心にもなったということも
ありそうです


今日、このブログにツィッターのことを書いたことと
昨日、NHKでたまたまですが、ウクライナの詩人が
戦時のいろいろ、言葉の意味が変わってしまうという
レポートをみたから、ともいえるのですが、ツィッター
なにかつぶやきをみて、感じるということは、やっぱり
「解釈」が伴うということを、感じています


ずっと思ってきたことですが、言葉にはそれぞれ、使う
人の背景といったことが、つながっています
ツィッターを使う人の背景、実は顔をみないでみてる
ということでいば、どんどん、言葉はひとりあるき
するのでしょう


そうしたことを、想像するに、ツィッター(だけでなくて
SNSはすべてでしょう)ゆるく構えて、なにかたとえば
自分にとって、気になることでも、確認して、いろいろ
ということにとどめるのが、使いかたなのだと、改めて
思います


顔のみえない、SNS、こわいですね