みちのくの仏

海だったり、山だったり、滝だったり
自然そのものを、神として感じ続けてきた日本人
それがほんとうにそうなら、すごいこと、ではないでしょうか
ほんとうにそうなら、と、書いて、そうでないということは
ないと思いますし、どちらかといえば、小説などの世界でしか
知らないのですが、自然を神としてきたことは
事実なのだと思うのです


きっと、自分の世代も含めて、「祈る気持ち」「拝む対象」みたいな
ものがどんどん、薄れてしまってる、そういう日本人が増えている
そういうことも、あると思います
それでいいのかな?そういう反省であり、振り返りを日本人は
したほうがいいのではないか?そんなふうに、ふと考えてみたい
そんな感じのする、展示を東京ステーションギャラリーでみました


「みちのくのいとしい仏たち」


もうずいぶんまえ、7,8年はたったと思います
あるとき、新聞のコラムで、パリのノートルダム寺院のことが
書かれていました。「ノートルダム」は聖マリアのこと
このノートルダム寺院は、フランスのなかにたくさんあるのですと
書いていました。聖マリア、マリア様に向かって告白する
そういうことを求めていた、人々がいる、そういうニーズが
あった、と、解説しています


日本における、「観音信仰」ということを聞きます
ここでも、「母なるもの」に向かって、許しを請う
自分のなかの悪しきものについて、告白するそういうことが
したい人々がいたということ


山をみて、海をみて、そこに拝む対象を見出した日本人は
おそらく自然を身近に感じていた、自然を恐れの対象としてきた
そういう生き方があったといっていいのだと思います


母なるもの
東京ステーションギャラリーの仏のなかに「乳房」をもった
ものがいました。それはおかしい、正しくないということでなくて
と解説は続きます。いわば確信犯といっていい、この仏に向かって
許しを請いなさい、それで救われるならいいのだと、そう
思って、作ったのだろうと、続きます


民衆の思いというのは、生活するということの
つらさ、がまんして、がまんして、生きていく、そのことが
正しい、そうすることがいいのだと肯定してくれる存在を
求めてるということ、そういうことにつながっていくといって
いいのではないでしょうか?


みちのくの仏たち
それは、ずっと、大事にしてきたものを、思い出させてくれる
宗教心などなくていい、なにかを、畏れ、なにかを大事にする
そういう生き方は「いいのだ」と思えてくる、あたたかさを
思い出します


みちのくには、現代の人が、忘れてしまった、そういう
生き方の足跡といったことが、まだまだあるのでは、ないか
そんなふうに思える、展示でした