世代の違いを超える

自分が十代だったり、二十代だったりのころ
思いもしなかったことを、感じるということが増えた
という、気がします。それは、少しかっこつけていますが
もうひとつの眼、といえばいいか、具体的な今、目に見える
なにかの、もうひとつ向こうに、なにがあるのか見る
感じるなにかということ、ですか?


いいえ、未来のことだとか、そういうすごいことが
できるようになったとはいえません。そんなにかっこよくはない
だけど、何度かみた、近い現象、人の反応などをみて、類推し
こういうことが起こってるのだろうと、想像し、つなげていく
ということでしょうか?


人と人が集まって「学び」がある、ということを目指したいと
思っています。ところが、間違った考え、間違った伝え方が
重なって、レベルがあがらないってことが、とてもよく起こることです


人間は考えるから、考えて行動するから、変われる
ということがあると思っています
意識化の原則ということがあります。まず「こんなふうに
なりたい、できるようになりたい」そういう意識がないと、なかなか
前に進みません


このブログに何度かだしてる話題、「仏法僧」ですね
仏:目的 法:やり方 僧:仲間、これを大事にする
ということになります
目的をとらえてる、もしくは、必要なことを感じて、
決めてるということ。その目的を達成するやり方を
間違えないこと、そして仲間、を大事にすること


世代を超える、これ、簡単ではありません
なにか、自分が感じた、「大事」というもとになってる
体験というのを、いっしょにしていない、ということが
ある、そういう世代の違いをいかに超えるか


このこと、「話せばわかる」と安易にとらえてしまうと
さらに、難しくなってしまいます
話す、その言葉の背景にある、体験というのが、変わる
うまくとらえられない、ということでしょう


少子化が起こって、ベースとして、違うなというのは
まず、兄弟の数だと思っています。生まれ育ったそこに
兄弟の存在がいるのか、それも、複数(兄弟でいえば、相手が
複数、つまり3人以上)いるのか?
こうしたことはほんとうに、大きなことと思っています


一方で、一定のところ「学ぼう」という意識のもとに
レーニングすることで、この少子化といったことに、対応
するための「想像力」といったことは、つけることができる
という側面もあります


相手のことを、想像する、こんなふうな言動は相手にどんな影響が
あるのか、理解、想像しながら、自分が行動するということ
ここが、うまくつながり、お互いのことを理解しよう、またそれは
自分にとっても大事なのだと、気づけること。そして習慣化できること
これができれば、コミュニケーションは円滑になり、まさに「僧、仲間」を
大切にするって、こういうことか、と、なっていく
ひとつの「世代のちがいを超える」ということが、回っていく
ということではないでしょうか?


今、令和の時代は、人と人のつながりが、とても弱くなっていると
とらえています。だけど、弱いということに気づいて、それは
よくなくて、つながりを作ろうと意識してる人も増えてる
それが今、ではないでしょうか?