自由と生きづらさ

自由ということは、生きづらいことに
つながってる?のではないかと、最近感じます


核家族化、都市化というのは、おそらくは、地域のしがらみ
だったり、家の束縛といったことを、なくしていく
つまり自由になっていくのに、都合がいいといえるのかも
しれないです


5年前に、親しくなった、越後湯沢の農家で民宿にて
「このあたりも、地域の人が集まってなにかするというのは
もうないね」という話を聞きました
都市。町だから、そうした地域のつながりがない?と思って
いましたが、実は地方、農家も少ない(と、全部をそうして
しまっていいかは、ちょっとまてもあるかもしれないです)


自由にしていい、それはほんとうに、いいのでしょうか
家の束縛、地域のつながりを感じるというのは、自由じゃない
だけど、安心だし、一定のところ、楽だといえる


私は、人と会うのが好きだし、パーティ、好きだし
そうしたなかで、人と人がなにか語ったりして、仲良くなっていくのを
みるのは好きです
先週も、一部の社員を集まての会があって、我が家で楽しみました
そういう遊び方というのも、やっぱり一回だけだったりすると
どうふるまえばいいのか、わからない・・・何回かやってみると
そういうことが楽しいと思ってくれる人も増えるようです


自由に生きる
それは、めざしたほうがいい、姿といっていいでしょう
だけど、やっぱり責任や、判断といったことが、伴う
生きること、生き方といったことが、どうも探しにくい
というか、変化がはげしい、今の世の中、なかなか「モデル」
といったこともみつからない。だから、いい、だからチャンスだと
そういうことも言えるけど、うまく変化をチャンスにするのも
やっぱり、エネルギーがいります


自分はなにができるのか
若い人が生き方をさがすことの、手伝いかなと思います
人とつながるのが、どうも下手にみえる
いいえ、つながっていますよ、と言いたい人、どうもそのつながりって
上っ面じゃないのかななどと、心配する


若い人が人とつながる・・・
私、誰かの自宅に呼ばれて、なにかということを、うまく利用してきた
そういうふうに、思います
その人の家で、じっくり話す
そういうことは、仲良くなるのに、本当にすごくいいことといっていいのですが
実は少なくなってるということじゃないでしょうか?


パーティはとても楽しくできました
可能な限り、「さぼっていいところは、さぼる」
ということで、紙皿とか、紙コップを使って、洗ったりということは
減らし、料理も、できれば手作りがいいですが、ときには
食材買ってくるということもありでやる


楽しいパーティ、またやりましょう
そして、つながるということがいいなという人を増やしたいですね