人が人を指導するということ

私は大学時代のある時点まで
学校の先生になりたいと思っていた
それは、学校が好きだからだ
勉強が好きかというと、嫌いと答える
子供が好きかというと、好きだろう
でも学校が好きなのだ


さて、そういう学部にはいって、先生になるための
勉強やら、仲間に熱烈な先生希望ができたりした
そこで、思うのが、人が人を指導するということの
難しさだ
意欲をどうやって、ひきだすのか
ほんの5分、集中して話を聞けない人をどうするのか
指導者というのは、なんてしんどいのだろうという壁があった


人を指導することを、1から10までやるという
学校の先生になろうと思って、人の指導ということで
考えて、思ったのは、指導できるということは
きわめて、限定された条件が整ったときにできること
人間が変わるということは、ちょっとやそっとなことではない
ということだろうか


それでもまだまだ20代とか、(実際先生にはならなかったが)
人を指導できる範囲はまだまだ、大きいなんて思っていた
社会にでて、人を指導しなければならない立場になって
そして、やっと、本当の意味で上記で思った
人間が変わるということは、ほんとに大変なことで
変えられるなんて、思うのは、少なくとも安易に思うのは
傲慢な考えだと気が付いた


人間ができることは限られてる。学生のときに頭のなかで
感じたこと、実際どうしてもやらねばならないという
状況があって(それでもできないことはできなくて、落ち込むのだが)
やってみて、無力感でいっぱいになって、感じることとは
全然ちがう


つい、前置きが長くなった
それでも、人を指導することは、素晴らしいしやっていこうと
思っている
いろんな条件あってこそだし、できることはとても限られるかも
しれないけど、指導していくこと、人に何等か自分が生きた証である
ことを伝えていくことは、意味のある、大変重要かつなんといったら
いいか、生きることそのものにつながることだろう


条件をクリアすることのいくつかは
たとえば、「言葉」だけではわからない
文脈を理解して、背景も考えること
体ごと、なにか感じてもらうこと
やっぱり、実際本人のメリットということが見えること
教える側に、静かな、受け入れるだけの大きな空間があること


そして、最大は伝えることの本気度といっていいかな
どうしても、やるぞという本気
そして、どれだけ本気かわかるように、伝わるようにする
工夫だろうか


人を指導すること
向き合っていく