川端康成、東山魁夷

川端康成と、東山魁夷は、とても親しく交流していました
その交流を知る、それぞれが相手にだした、手紙が読める
本があって、その交流のいろんな意味での良さ、高さといった
ことを、知ることができます


はじまりは、東山が、川端に会いに行った、それは川端の人の
というより、川端が持っていた、作品を見たいという、アーティスト
としての、思いが先にあったとも、読んでいくとわかる
そうした、自分からしたら、まだ若い、東山が訪ねてきたという
ことの、思いを受け止めて、はじめての訪問にも関わらず
自分がもっていた、国宝になってる、十便十宜を見せてもてなした
という話があります


ときに川端、56歳、東山、47歳。自分がこの川端の歳を超えて
少しだけ、このときのうれしさ、うれしさをもって、東山をもてなした
気持ちというのを、想像します


これが昭和30年。このときから、川端が虹を渡る、昭和47年までの
間、川端、東山は、ずっと交流を続ける。私が好きな信州に旅したことも
あるといいます。そのとき同行した、井上靖は、川端、東山はずっと
熱心に語り合ってる「美とはなにか」について。と、手記に
残しています
いいえ、旅の間だけでなく、2人の間のメインの話題はいつも
美とは何かだったのではないでしょうか?
アーティストが、自分が美の表現者だったり、美の伝道者だったりを
自負するからこそ、自負はしないのかもしれないけど、その近くに
いるからこそ、美ということの、大きさ、深さに、吸い寄せられる
ように、美とは何かを、考えざるをえないのかもなどと
思ってみます


さて、川端と東山。二人が書簡を残していて、そこから想像できる
ものも、実際、アート自体の勉強も、そもそもの感性も自分は
貧弱だなという、視点にたてば、どこまで、2人のやりとりのよさ
というのを、感じられるのかというのは、甚だ怪しいのですが
そういいながら、少なくともあこがれ、は感じるような、そのくらいの
心は持てている、と、思っていたい


川端は、東山に、京都が、美しい京都がどんどん、失われてしまう
今のうち、あなたの筆で、京都を描き残してほしいという、希望を
いい、そこで東山が、京洛四季という連作を描いたという話が
残っています
その描かれた京都は、美しく、京都に行くときのひとつの
案内書になってるといっていいですね


ながながと、川端と東山のことを、書きました。人間には想像する
という能力があって、2人のことを、ああだったのか、こういうことも
あったのか、と想像しながら、見ているのは、東山作品が好きな
自分としては、うれしいことです


東山の作品は、なぜか、気持ちを落ち着けてくれるそういう
雰囲気がある、と、感じます。風景画家。おそらくはなにげない
と思えることも、四季の移ろいの一瞬といった、そういう、ひとつの
切り口といったことにしても、決して「押しつけがましくない」
日本人が好む、さりげなさがいつもあって、美の世界なのに
控え目といった気持ちが伝わってくる


こう想像すると、東山魁夷という人間の大きさというのが、改めて
感じてくるということがあり、作品からその人となりが想像できる
ということは、なんて、素晴らしいのだろうと、感じるのです


アーティストを、好きになるということは、その生き方を
好きになることになる、これって実際、作品自体を重視しないのかって
自分自身に疑問がでていたのですが、いいえ、分けられるものでもない
そうして、人と作品一体として、好きになることでいいのだと最近
思うようになりました