過去を味わう

白石一文の小説、「君がいないと小説が書けない」
このなかで、過去を今、味わうという一節がでてくる


グルメだった、小説家立原正明を親しくしていた
新聞記者時代の先輩の家で、トーストをごちそうになったこと
これが、数十年たって、今、パンの味を味わえる自分
というところで、味わい直してる・・・


立原正明と親しくしていたくらいのその先輩が、なんの変哲もないと
みえるトーストを進める。実はそのトーストものすごくうまかった
(はずなのだが)のだけど、そのときの自分には、自分の側に
味わう舌がなかったと、言えないか?


食べ物というのも、どういう気持ちで、誰と食べるかによって
ずいぶんニュアンスがちがってしまうということがありそうです
いくら、有名かつ、高級なレストランだったとしても、斜に構えて
味わうということを、しないでいたら、どんなにその味が
いいものだったとしても、おそらくはわからない。味がわからない


高級店より、庶民的な店のほうが、実はうまいものがある
などと、「知ったかぶり」をこのブログだとか親しい人の
前で言ったことがありますが、実際のところ、高級なお店で
味わうという、感覚が自分のほうにないのかもしれないと、
今、気づくのでした


その味、どんな味がするかというのは、どんな場合で
どんな人とということ、そして、自分の気持ちの状態というのが
くっついてくるのだということが、今、とても大きく感じる
ことです


楽しむ=味わうというふうに、考えると、食でもアートでも
その対象のものがいいと感じる、食ならおいしい
アートなら、美しい、それは相当受け取る側の自分の
感覚というのが、大きなものと言えそうです


10年以上まえ。美術館に行くというのが、まだ、「自分事」で
楽しめない状態だったりしたころ、「美術館」という場が
自分を圧迫していたということを、覚えています
なにかというと、立派な美術館にわざわざ、飾ってある絵について
その絵のよさを、わからないのは、わからない、自分のほうが
だめなんだと、思っていました


いいえ、そんなことなくて、実は自分でほんとうにいいな
なんて思える絵というのは、たとえば、人に例えれば
自分にとって、素晴らしく、相性がいいとか、いっしょにいて
楽しいというのは、割合としては、やっぱり高くなくて
少なり確率だろうということから連想すれば、いくら
世間として、認められた絵であろうが、自分がぴぴっとくるか
どうかは別なのだ、別なことが普通なのだと思えて
とても、気持ちが楽になって、絵をみるのが楽しくなった
ということがあります


先週末、ドライブにでかけて、自分へのお土産に一本1000円の
かまぼこを買いました。これ「高い」という感覚あります
だけど、こうしたものは、原材料のあれこれが値段そのものだろう
そういうふうに思うと、いい材料を使ってるのだと思えば
そういう、確かな味がするという感覚をもてます


過去を味わい直すことができる
これが、ほんとうにそうなら、そのとき味わえなかったなにか
について、時間をかけて、味わいなおすということが
できてしまう。それは楽しいともいえます


人生は、いかに、自分がいいという場面を自分で楽しめるか
それが、大きなポイントだと、思えてきています
そういうとき、あるとき、味わえなかったなにかについて
追っかけるということは、面白いことだと、言えませんか?