自分を知る

自分のことを、知る
自分を知っていれば、すごいことだと思います
そして、それは実際、なかなか、難しいのです
フィルターがかかるということが、あります。それは
自分自身のことだから、ひいき目もはいる、そして常に変化を
いつも感じてるということもあります


自分自身の存在、ひいき目がはいるのと、同時に、一定の
自己否定というのも、ついてまわるということもありそうです
自分を、実際より、小さくつまならいものと、思うこと
それは「保身」ということもあるかもしれません。また、そうして
目立たないことで、責任を回避し、つまりは仕事を少なくしようという
魂胆が透けてきます


そうしたことと、常に、ゆれうごくということがあいまって
自分自身のそのままの様子というのを、見れないという
感覚が働きます


一方、自分自身が、やっぱり肯定的存在として、こうだなと
感じれる、できれば、一定のところ客観的に、見えていると
なると、それは自信になり、また自己肯定となり、すごくいい
ということもあります
そういうことで、ライバルの存在なんて大事だということも
ありそうです


相手より、自分のほうが優れている
能力がということもあるけど、やってることが
意味のあることで、自分の存在がいいものとして
映し出される
そういうことが、とても自分にとって、いいなと思える
要素となる


こんなことは、誰にでもある事といっていいのでは
ないでしょうか
そして、そうした、自己肯定の事象をいくつか重ねて
自分の存在、自分のやることを、いかに活かしていくか
そうしたことに、関心が高くなり、計画し、実践できれば
ほんとうに、そうだと信じることができるようになるのでしょう


ライバルとまた、ちがう意味で、大事だなと思うのが
自分のことを、見ていてくれる人の存在でしょう
多くの場合、10代までとかは特に「親」というのがそうなのですが
親には反発することも多いですから、なかなかここにも
フィルターがかかってしまうということも、あるのですね
そうなのですが、なんらかの触媒といったことを通じて
親が自分をどう思ってるのかを知るということは、実際大事だし
貴重な情報ということはあります


また、なんらかのコーチ役、そしてメンターということが
大事と最近思いました
コーチはどちらかといえば、短期、ある事象をどうやるということに
有効、メンターということになれば、キャリアデザインだったり
どう生きるのかということに、関わると、文章で読みました


何年、できれば、それ以上、メンターとして、関わってもらう
ということ。そして、やっぱりいくつかの環境だったり
なにかしらが、共通ということも大事だと言えそうです


自分のことを、知る
鶴見の大寺、大本山総持寺の、奥まったところに
「古教照心」と、掲げられています
自分自身を知る、それは古い教えを受け取りながらせよ
ということになるかと思います


高い、先人の知恵、でしょうね