客観視

どうしたら、自分のことを、客観視できるのか
自分のことを、理解するということが、とても難しい
たとえば、スポーツでひとつのプレイをしたとする
他人は、その1回をその人の実力であるというデータ
として、みていく
ところが、自分はいまのプレイは、何かが足りない
本来の自分ではないという、意識からはじまって
自分のデータとして、認めないといった、なにかしら
フィルターをかけてみる


文章を書くということ、河合隼雄先生の方法でいえば
箱庭を作ってみる。そうした「表現」を通じて
客観視を促すということが、一定のところ、できる
という研究があります


表現するというのは、もっとも人間的な行為と
いっていいと思います
まさに、文化的なところ、前頭葉を鍛えるのに
とても大事だと、聞きます


表現、という意味では、ここを、トレーニング、言い変えれば
刺激するということ、これが客観視につながる
ということです
人間らしさということと、客観視ということが
つながってるという感覚も、大事にしたいところです


ウォーキングコースにある、総持寺の境内に
「古教照心」と書かれた、額があります
この古教照心も、客観視する態度を忘れずに
勉強せよという、言い方だととらえることも
できます
つまり、千年というときを、重ねて書物というものが
あり、先人もおそらくは、近い思い、考えをもった
ということが、多いなか、自分の考えを先人の古典と
比べて、照らしてみよ、という教えですね


全体像をみるようにするとういことも
客観視に、必要なこととも思います
仕事は、特に最近、細分化されてるということが
あります。そういうなか、仕事全体はどういう意味を
持ち、その部分である、自分がやってることは
そのなかでの、意味、位置、今後の展開はどうなると
みるのか?


はたまた、そうした全体をみるという話になると
拡大解釈できる能力というのも、必要とも
思っています
日本という課題先進国で、若い人を育てるという
とても大事で、時宜を得た仕事をしてると、自分は
拡大解釈します
おそらくは、世界全体で、貧困から抜け出す人の
割合がふえるなか、自分自身がどう生きていくのか
また、対人対応力が相対的に衰える中、人と人と
どうやりとりして、困難な解決に臨むのか
問われてる、現在だと、私は認識するからです