仕事のやりかた

異業種の人からすると、プログラマーだったり、SEと呼ばれる人の
仕事は、どうも不思議と言っていいのだと、推察します
コンピュータが理解する、言語で、コンピュータに命令を
書き込むわけですよね
こう書くと、相当それは、難しいとみえることです


デジタルコミュニケーションという言葉があります
人がやってる仕事を、コンピュータに置き換える。
そのときに、コンピュータができるように、仕事を整理し
設計するということが、できるかどうか


日本人は、0と1の世界に分けるということが、どうも
苦手、というか、やりたくない、文化をもってると
思います
ある仕事をするということ。単純になにかの書類の
記載事項をどうするか?場合わけをどこまで、含めて
その記載事項に表記するようにするのか?
感覚的な話、欧米なら、システム上その機能が含まれてない
なら、「できる」「できない」とそのひとことで終わりです
それ以外はない
だけど、日本はそうはいってもと、相談などとはじまります
場合分け、特例をみとめてしまったりする
そうすると、システムで対処しきれないなにかというのが
残り、せっかくコンピュータでシステムで仕事しようと
してるのに、それに人がなにかしてるなんて、まだやる


そんなばかな、「コストを考えろ」という声がしそう
なのですが、結構、現実としてそうなのかなとも、思うのです


日本には日本の文化がある
その文化に、のっとってというか、そうしたことを
ふまえた、仕事の在り方があっていいのではないか?
もちろん、コストは、というときに、それも無視は
できないけど


ここずっと仕事していて、日本のよさ、日本人のやり方、生き方
といったことを、うまく理解、そして深く、共感しながら
仕事進めたいと、思う時が増えました


あいまいなこと、というのを、いれておく
そういうことも、日本人のやり方といっていいでしょう
これはこういう理由で、やりますとか、やりませんとか
そうした、単純な切り分けでない、あいまいなものを
許容したら、いいとも思います


「企業で」という視点があると、そこには、どうしても
コストとか思うので、はたして?ということもあるのですが。
ただ、企業でなく、個人だろうか、官庁だろうか、コストは
存在するのですがね。


あいまいと、くっついて、相談するということが
大事な日本人のいいところ、とも、思っています
そして、相談するということが、なりたつためには、どこかで
なにか、人間でない、大いなるものへの、畏れといったことが
共通で存在するということも、どうやら、大事と、思えてきます


日本人は、山に、木に、海に神を感じながら生きてきたと
小説で読みました
そうした「感じられること」があって、人と人が相談してる
そういうことが、日本人のやってきたこと、と、とらえてみたら?
ということ、かなと、思います

人といっしょに食事する

いっしょに、食事をするということ
この共食こそ、人間が人間として、いる、行動の
大本だと、京大の山極先生は、著書のなかでいいます


ほかの動物をみると、食べ物を他の動物に与えるという
行為は、ほとんどみられない。まして、家族で
共食するということはないのだと、説明します


よく二足歩行することが、サルと人間の分かれ目に
なったと、いわれます。もっとふみこんだ研究を
した山極先生は、それだけでない、人間が人間として
こうして進化したもとは、と探ります


さて、いっしょに食事をするということ
ほんとうに大事だと、思います。孤食といわれる
いま、人といっしょに、食事をしない人が増えてる
ということ、すごく、悲しいことだと思います


自分の感覚として、いっしょに食事をして楽しい
ということは、お互いが元気なことを、確かめ
お互いが一定のところ、同じ感覚をもってるという
ことを、喜ぶ、そういうことになると思います
もちろん、それだけでない。共通の話題で、話せば
親しければ、もちろん、それほどまだ、親しくない
という人でも、気づきが生まれて、なにか、自分にとって
創造的な行動のもとに、できる、のではないかという
期待があります


食事をいっしょにするということで、お互いあまりまだ
よく知らないという人だったら、理解しあえるということが
あります
ぎゅっと単純にいえば、おいしい食事を、おいしいといって
笑顔で食事する人に、悪い人はいないというか
少なくとも、信じていいなという要素の相当な割合のものが
そこに、見えてくるといっていいと思います


こうした感覚は、最初に書いた、山極先生の、人間が人間で
いられるというか、そうなってきた、大本に食事をいっしょに
することがある、という、すごく大事な話の、答え合わせに
なってるようにも、思います


人間と人間。いっしょにいるということ、ですでにそういう
ことがある。つまり一定のところ、相手を信頼するという
ことがあるはずです。そして、いっしょに食事をするとなれば
それは一層、高まるといっていいでしょう


人間は誰と食事をするかということで、とても高度な判断
相当、いろんな感覚を駆使して、そのことをするということが
ありそうです


こわいことに、今は感染症のことを、なにかと言い訳に使って
いっしょにいること、いっしょに食事するってことを、なしにして
それで、いいのだという顔をできるという、不思議な状況に
あるといっていいかもしれません


ほんとに、こわいことです
少なくとも、誰と食事するかといった、感覚は相当にぶくなっていって
このままでいれば、そうした感覚は、どこかに忘れていく人も
でてくるのではないか?そんなふうにも、危惧します


人間の基本に帰り、人間として、自分のなかのなにかを高めて
いこうとするとき、他人との関係性というのは、ほんとに大事だし
亡くしたくない、と思います
なにより、楽しいことですしね

ツィッター

SNSは、実際のところ、もう16年前とかですが、mixiではまりました
そのころから、ツィッターは気になっていましたが
あまり、??で、やらなかったんです


去年から、仕事で知り合いをふやすのに、いいなということで
やっています。確かに、気軽に特に同業の営業さんを
ふやすのに、いいなということはあります


そんな感じでやっていたら、おそらくは、同業の営業さんの
フォロワーも、100人は超えて、だんだん、だれがつぶやいていて?
なんていうのも、おっかけきれない、なんてなりそうです


mixiのときもそうでしたが、やっぱり親しくなるのなら
オンラインもいいけど、リアルもねぇって感じで
対面で会うということと、混ぜていたんですよね


SNSの本来のよさっていうのは、やっぱりツィッターなら
リツィートというところにあるんだと、推測します
もっとも、自分がリツィートしたことが、なにか
「バズる」っていうのかしら、そんなことになったことは
ないですが。


それから、3,4年前に、wantedlyという、採用にかかわる
SNSっていうのもでてきて、使ってみました
面白いなとは思いました。ただ、メディアとして
採用ということで、思うに、他のメディアといっしょで
なにかしら、アドバンテージをみつけて、集まるんだよな
(あたりまえといえば、あたりまえ)
それでいて、私たちの今の仕事そして、自分たちのポジションで
いうと、「派手な、アドバンテージ」ってないのが、実情です
また、アドバンテージが良くて、集まる人って、やっぱり
どこかで、やめていってしまうとも、感じています


仕事で、SNSというのも、バランスなんだろうとも
思います。つまり、SNSって、つぶやく人の魅力とかで
つながる、そう、それでいいはずなんですが、必ずしも「会社」の
というなにかが旨く伝わるわけでもないですね


さて、でも、フォロワーの方、1000人を超えて、やっぱり
知り合いになるということでは、いいメディアとも
言えそうです


個人のなにかで、最初はいい、そこから、お互いがメリットだせる
ように、なにかしていくということになりますね


きっかけがあって、そこから、本当の信頼に
つながっていくような、そういう、ステップを考えておく
それが大事と、気づきます


なんでもそうですが、そんなにスピーディには、いかないですよ

美術館

絵をみて、よかった、と、思えるのは
作家が表現しようとした、何かに自分のほうでも、共感
だったり、共感までいかなくても、作家がみせてくれたものへ
いいなという、感覚があって、「見てよかった」となるのだと
感じます


パリ、オランジェリー美術館の、モネの部屋。その部屋の
入り口に、モネの言葉として、この絵をみて、日ごろの疲れを
忘れるような、そんな風な時間になればいいと、願ってる
という、ことがあって、モネの絵を描くその、気持ちに
いいなと思ったのです


アーティストは、その自分の感じてることを、絵にする
のですね。アーティストが感じてること、だから、絵になると
いっていいと思います


今年はじめの、アーティゾン美術館では、明治の画家、青木繁
海の幸を展示、また現代のアーティストの森村泰昌は、そのコンセプトを
ひっぱり、昭和初期だとか、バブルのときだとかに、セルフポートレイト
という、森村の手法で、本歌取りといったことを、やってみせます


ずいぶんまえに、森村が、日本、また世界の女優を
セルフポートレイトして、みせて、その妖艶といった雰囲気に
おっと、驚いたことを思い出します


生きてる人がいろいろのように、絵もいろいろです
だから、面白いともいえるのでしょうし、そのいろいろの
なかから、自分がいいなと思える、そういう絵をみている
探し出してる、そういうことも、楽しみだともいえそうです


週末に、美術館に通うのは、そうした楽しみをみつけるため
と思っています。そして、可能なら、見てその感想とか
コメントを言い合うというのも、楽しいことです


アートをみて、楽しむということ。千住博は、何か特別な
勉強をして、アートをみるということが、必要なんてことは
ないt、いいます。出前にきた、アートには素人の人に
自分の絵をみせて、どれが好きかとたずねてみるといいます
そして、こっちだと、選ぶそのことは、驚くほど自分がそうだなと
思ってることと、いっしょだと、いいます


アート、奥が深いし、いろんな知識をともなったほうが、より
楽しめるということも、事実だと思います。だけど、まずは
忘れてはならないのは、見て、感じることと思います
知識が少しついてくると、知ってることにとらわれて、みるという
ことで、感じるようり、前段に知ってることで、感じるがずれる
フィルターがかかるということが、とてもよくあることです


人間は、言葉を通じて考えるし、記憶します。だけどその
みた、瞬間のその感覚を大事にするというのも、やっぱり
忘れないように、したいところと、思った時間になりました


週末の美術館の時間、まだまだ、楽しめそうです

レストランにて

楽しく、家族であり、友人と食事するというのは
ほんとうに、うれしい、時間で、大きな楽しみですね
残念なことに、この感染症のことがあってから、飲食店は
とても、苦しい状況だろうと、推察します。事実、行ったことの
あるお店が、閉まってるってことは、もうとても多い数
みかけます


レストランで、また来たいなと思う要素というのは
いくつかあります。料理自体の良しあしはもちろん
その店のもつ、空間としての、気持ちよさ、そして
接客があるでしょうね。そう思って、この三拍子そろって
いいなと、思う店って、実際少ないと、感じています


最近知ったお店で言えば、新宿のセンタービルにある
墨絵さんはとても、気持ちよく食事ができました


https://www.suminoe.in/


店主の言葉として、女性が食事して、ほっとできて
また、気持ちが和むような空間を作りたかったと、書いてます
外食というのは、長く、男性のほうに目がいっていたように
思います。ですが、いまたとえば、カップルでだったら
きっと女性のほうが、店を選ぶほうが多いかもしれませんね


自分が男性なのに、こういう言い方をするのは、性別の優劣を
いうようだし、どうもとも思うのですが、上記に書いた
店の雰囲気だったり、接客ということに敏感なのは女性なのかも
しれません


外食して、ほっとして、いい時間が過ごせるというのは
きっと気持ちが前向きなことと、シンクロしますね
そういう前向きな気持ちから、仕事の上でもプライベートでも
なにかいい発想がでて、人生を楽しくしていくヒントがでるように
思います


「気を養う」という言い方があります
食事は栄養を補給するという以外に、元気のもとをいただく
ということがあるように、思います。そう、思うと
作りてが、「おいしいですよ、元気になってね」っていう、メッセージを
こめて作った食事がほんとうに、うれしいと思います


社員旅行といったことも、ここ3年ほどできていないのですが
2019年にお邪魔した、新潟の越路では、ほんとに、そういう
家族全員で、楽しんでください、おいしいものを食べてください
という気持ちのこもった、あたたかいもてなしをいただいて
元気もらって、帰ってきました


生きていて、何かしら、他人も元気にできるような、そんな
ちょっとしたことでいい、継続していたい。そういう気持ちがあります
生きていて、ひとりきりというのは、どうもあまりよろしくない
やっぱり適度に、相手と、楽しいやりとりがあって、人生、楽しいのだと
思います


これから、いい季節です
可能な限り、外にでかけて、いい空間で、いい時間をもちたいと
思います

日本人の生き方

司馬遼太郎記念館に、お邪魔した時、生前の司馬の
姿が、映像でながれていました。そして、そのなかで司馬は
自分の書く小説は、20代のころの自分への手紙ですと
語っていました


太平洋戦争終結時、招集されて軍にはいっていて、
確か、上陸してくる、アメリカ兵と戦うという、部隊に
いたとのこと。そのとき、住民が逃げてくるのと、どう
衝突をさけるのかと、問うた司馬に対して、上官は踏みつぶせと
命令したとのこと


司馬は語ります。なんて、ばかな、こんなおろかなことがあるか
なんで、日本人はこんなにだめになってしまったのか?
こうした、絶望に自分がおちるなか、いいえ、日本人は素晴らしい人も
いたのだ、それを確かめ、そのことを伝えてくということを
自分の仕事にしようと、心を、決めたとのこと


なにかを、感じて、その感じたことに対して、行動する
それができるのが、人間のすばらしさといっていいと思います


河合隼雄先生は、太平洋戦争で、ものすごい数の日本人が死んだ
それも優秀な人がほんとうにいっぱい死んだ。また家を町もやかれて
もう立ち直れないのではないか?と思ったとのこと
この河合の本は、昭和60年ころかかれていて、続きます
ところが、戦後40年とかだってみたら、日本は素晴らしく復興し
産業のある部分では、世界一といっていいようなところまで
きてる。すごいことだと


景気、ということではバブル以降、失われた30年とかいいますが
低成長が続きます。そうなのですが、経済規模は世界三位に
まだいる、この日本のすごさは、すごいといっていい。もちろん
これから、少子化で、経済は苦しいかもしれないけど。少子化
というのは、世界的な傾向ということもあります
課題先進国といってもいいかもしれません


日本は今後どうなっていくのかと、悲観的な考えに
行く前に、日本の日本人のすばらしさ、強みをしっかり、認識するのが
大事なのだと、思います


日本人は、チームで成果をだすのが、うまい、日本人は稼ぐということに
熱心だ、日本人は・・・
このチームで成果をだすのがうまいということ、ずっとDNAにあるのは
おそらくは聖徳太子さんの、「和を以て貴しとなす」からなのだと
想像します
このこと、この1,2年で知ったのですが、この憲法第一条を、実行するための
第二条があり、「厚く三宝を敬え、三宝とは、仏法僧なり」ということが
あり、法隆寺のお坊様は、ここを、現代語訳してくれます
仏法僧とは、仏:目標、法:やり方、僧:仲間ですと


ああ、と、目から鱗とはこのことだと、思いました
そして、私が想像するように、チームで成果だすことがうまいのは
この聖徳太子さんからもらった、ことを、大事にしてるのだとしたら
まだまだ、やれることあるぞと、勇気がわく気持ちになります


仏法僧、ここを、大事にしていく、生き方ができるということ
これはほんとに、素晴らしいし、やりがいがあるし、やっていくことで
成果がでると、信じられると、思うのです
ちょうどよい、自分へのメッセージだと、感じたのでした

コミュニティの話

社員旅行で使わせてもらった、新潟、南魚沼の宿、越路の
おかあさんは、いまは、このあたり、農家といっても
集まって、仕事するってことはなくなっていますと
話してくれました


好きな漫画の、クッキングパパでは、新聞記者で、主人公の
奥さんの虹子さんが、九州のとある、離島にいって、みそ作りを
取材するというシーンがあります
こうした、みそ作りだったり、なにかしらの共同作業は
冬を越すためだったり、言ってみれば生きていくのに
必ず必要なことだったに、ちがいないのですが、物流の
発達だったり、電化製品の普及等、その必要性は薄れていった
のでしょう


今年の冬に、大好きな信州、野沢温泉にて、降りしきる雪を
みていて、感じたこと
こうした、雪というのも、人と人をつなぐものだったと
思うのです。ひとりで雪かきはやりきるのはしんどい
ものですね。それから、来客があって、あまりに雪が
ひどければ、泊まっていったりということに、自然になった
ということがあるのでしょう


だから、時間をかけて、人と人がつながるということが
いまより、もっとあった。人と人があって、いっしょに
なにかするということは、大事なことですが、ここ数十年で
いかにそういう機会を、なくしているか?


コミュニティのつながりが、減っていくということは
そこで、育つ子供が孤立してるということに、なりますね
子どもが育っていく、そういうもと、基盤になる、人と人の
つながりが、きわめて、薄くなってしまうのです


マンションに住んで、ずいぶん経ちます。同じフロアだったら
まだしも、ちがうフロアの人は、顔と名前が一致しない人が
たくさんいます
当然のことながら、子供にしてもそうです
いっしょに住んでるといっていい、その状態なのに、その社会的
弱者だったりする、子供の顔がわからない。知る機会も
ないのです。


ちょっとまえに、子供食堂の話を、本で読みました
子ども食堂は、全国でふえているとのこと
そして、子供食堂は、お互いを知る場になっている
情報をもらう場になっているということでした


ちょっと素敵な話だなと思いました。今は情報があふれてると
いいますが、「〇〇を調べよう」という、意識があって、やれば
できることはふえますが、自分がなにか困ってることが、どこに
むかって、情報をとりにいくかということも、認識できなければ
情報はとれません。いいえ、上に書いたような、コミュニティが
機能していないということは、まえより、情報はとれなくなってると
みてもいいのではないでしょうか


こうした、身の回りのことで、漠然とした、不安を感じる
都会に生きてる人は多いのだと思うのですが、なにかした、こうした
実際、顔と顔がつながっていく、ということへのやり方をみつけるのは

以外に難しいとも、思っています