抽象化と具体化

経営を、どのレベルで、考えていくのか
ということが、大事なんだなと、感じることがあります
木を見て森を見ない、森を見て木ををみない
両方なんだとか、いいますが、あなたは両方できますか?


サラリーマン、つまり担当者の嘆きとして、なんで上司は
現状をみないで、理不尽なことばかり、言ってくるんだなんて
ことがありますが、それはあたりまえのあたりまえですね
上司である人のレベルでは、理不尽でも、要求しないと
会社、組織はまわらなくなります
上司が、担当者の視点しかもてなかったら、だめなんですよね


そうはいっても、全く担当者の状態、実際のひとつひとつの
商談について、知らないなんてことになると、これまた
どうするのよってなことにも、なりそうです
抽象化と具体化を、両方いったりきたりできなくては
だめなんんですね


今のところの理解としては、あるときは、具体的な視点をもち
またその次のなにかのときには、抽象的に考えるということが
できるようにしておく、ってなことになります


話は、飛びます
人を育てるのに、父性と母性、両方ないとうまくいかない
そういう、ことが言われます。ただ、同じ人が同じタイミングで
両方持つなんてことは、至難でしょうということで、だれかと
組んで、合わせ技でやるなんてことを、考えます
ちょうど、家庭で父親役と、母親役がいるようにね


人間は矛盾をもってるものだし、社会も矛盾ということが
いっぱいあるといっていいのではないでしょうか
そういうなか、どう自分とまわりの人とのおりあいをつけていくのか


週末に社員が集まってる場で、「和を以て貴しとなす」という
日本人が大事にしてるもの、日本人の良さにつながるもの
ということで、話をしました。実は教科書にのってる
聖徳太子の十七条憲法の第一だよね?といってもまだぽかんと
してる人がいました


先に書いた、矛盾があるなかどうやって、やっていくかのひとつの
答が、和を以て貴しとなす、だと、思っています
お互いを尊重しあい、心を尽くして、話し合って合意点をみつけていく
この合意のしかたというのが、うまいのが、日本人といっていいのでは
ないでしょうか?


そして、物事は、層の構造をもってるものです。あるレベルでみると
ひとつの考えなり、答え、Aがある。だけど深堀するとまったくちがう
ものが見えてくる
だから、具体化と抽象化ということが、必要で、その物事はどうなってる
とみたちきに、ぱっとみたことだけで、進められないのですよね


ひとりの人間が考えたり、感じたりということは、限りがあります
だから、情報をいろいろあつめるという意味でも、複数の人の意見
など、集めるのは大事です。一方「決定する」ということは
多くの場合、あることを切り捨てて、こっちをとりますということを
してる場合が多いです。足して二つに割るとやっていると、結局は
決定とはなっていないのと一緒に近くなるからです


そのあたりを、どこまでやって、どうするのか
これが、また、面白くもあり、難しいところです

話し合う

確か、高校生のころから、言葉を使うことの難しさを
思うことが、ときどきあります
言葉っていう道具は、なんて、誤解を生むんだ、言葉って
やつは、やっかいだ


言葉の定義というのは、人それぞれ、ちがうものです
ですが、言葉がなければ、そもそも、考えるとかできるのか
そういうこともあります
だから、一言、言葉で伝えればいいなんてことはなくて
一定の時間、いろんな要素をもって、相手に伝えていく
ということが大事だと、言えます


あなたは、私、であり、私たちにとって、大事な人です
このメッセージを伝えたいと、よく思います
社員同士、協力する。相手から学び、自分からも学んでもらう
そういうことが、よくできること、これがすなわち、いい会社だと
思っています


そういうとき、お互い、学ぼうということが自然にできるような
絆があること、それを、思います。実際、日本人はそういうことが
とてもうまかったのだと、思うのです。ですが、ずいぶんそれは
だめになってるとも、見えます
まず、兄弟が少ないのです。育つ過程において、相手のことを
思うということが、減ってるでしょう。似てる状況が作ることと
して、10代で、親や先生以外の年齢が違う人と、接するという機会が
本当に減ってると思います


だから、それだからこそ、他人から学ぶということが、今ほど
大事なタイミングはない、とも言えます
他人と相対して、やりとりして、「ああ、そうか」「これが大事だ」
と気づく。気づいたら、行動して、なにか自分でできることを
する。こういうことを繰り返さないと、なかなか、人間は成長
できないものです


成長こそ、ほんとに大事な、生き方と言っていいと思います


言葉を使うということも、成長してほしい要素といっていいと
思っています。話し合い、ですね。話し合いがうまくなる
ということを、社員の皆さんに繰り返しています


言葉を使って、お互いの意見を交換する、そういうことを
まずはトレーニングとして、してほしいと思います
できれば、違う立場、年齢、性別、などなど、自分と違うな
と思う人と、どんどんやってほしいと思います


さらには、感性を磨くということを、意識のなかに常にもって
欲しいなと思います。なにかを好きになる、そういう能力と
いっていい、感性ですね。感性を磨こうとしてる人と会話する
その楽しさ、深さというのを、感じてほしいと思います


若い人の成長には、あるステージを用意して、そこで思い切り
活躍するようにしてもらうのがいいのだ。このことを、あるとき
電車のなかで、聞いて、ほんとにそうだなと思いました


自分はそのステージを用意する、そういう役割をしようと思いました
半ばやっていて、でもまだまだだ、と、思うこと、しばしばです
そうした、ステージで、なにかをするということを、どんどんやる
そういう、気持ちを育てたい。成長するってことが、実感できる
そういう場を、作りたいです

うつわを選ぶ

今年、親しい人のお祝いがあって、そのとき
ぜひ、使ってほしいなと思う、うつわを選んで送りました


親しい人にうつわを、選ぶというのは、楽しいひとときです
実際のところ、ちがう感覚、感性をもった、人なわけですから
自分が気に入ったからといって、相手も気に入ってくれるか
それは、わかりません
だけど、気に入ってもらえるかな?使ってもらえるかな?
と、思って選ぶこと自体が、楽しいことです


うつわを、くりかえしみていると、自分の好み、というのが
でてくるものです。前に聞いた話、器が好きになると
まずは、色彩が豊かだったり、美しい絵があったりという
うつわが目に留まる。でもしばらくそうした、器をみてると
だんだん、色彩だとか絵というより、その生地そのもの
の美しさ、よく「土もの」と呼ばれる、そうしたうつわに
目がいくようになるとのこと


土もの。もう何年前になるでしょう。たぶん、7,8年はたつと
思うのですが、備前に、備前焼を見に行きました
まだ、早いというか、備前焼って、その良さって、うーんと
うなってしまいますよね


実は冒頭に書いた、今年、親しい人に選んだ、うつわのひとつは
備前焼に近い、「焼き締め」の、マグカップです


備前焼、焼き締めを眺めていると、そのあたたかさといった
なにかが、感じられるようになるのかな、と、思います


備前のものでいえば、どちらも、酒器ですが、ひとつは、焼酎を
のむときの、大き目のカップ、もうひとつは徳利をもっています


表面はざらざら、そして色は、濃い茶色。地味といもいっていい
その存在は、おそらくは、ずっと陶器というものを使いだした
ころから、あるものに、近いようにも、思います


備前焼の作り方を、思うと、釉薬は使わないのですね
つまり、「火」にまかせる。そういう厳しい作り方と
見えてきます


いい材料を使い、火と勝負する。
かっこいいのです


備前焼の作家、金重さんを訪ねたとき、これは安土桃山のころの
花瓶、これは江戸のころのものと、貴重なうつわをみせてもらいました
正直、見せてもらっても、どこがどういいのかというのが
私には、わかりません、と、申し上げると、笑顔で、いいんです
おそらく、明日とかもいっぱいうつわをご覧になるでしょう
そういうとき、今日みたものと、なにかちがうな、それくらいで
いいんですと、おっしゃってる


うつわを、見るということ、楽しいです
そしてあるときから、使うということが、うつわを愛してみる
一番いいことなんだよと、教えてもらいました
使うから、いいものが自分にはいってくるのだと、聞きました
そうなのですね。使ってみる、


この使ってみるということを、やるようになって思うに
自分のなかのいくつかの要素というのが、うつわを使っていて
なにかしら、フラッシュするというか、融合して、いい感じに
なると、いうことかなと、思ったりします


珈琲で、お酒で、いいリラックスした時間があるということ
その時間を、ちょっと薫り高いものにしていく。そういうことの
なにかが、うつわは、存在意義があるのかな、などと
思うのです

人と親しくなるということ

人脈ということが、ビジネスはもちろん、人生の
キーを握ることがある、これは相当な数の人が、認める
ことでしょう


ごく親しい人に、70代後半になって、親しい友人ができた
という話をしてくれた人がいます
すごいな、と、思いました。いまその相手と、家も近い
ということもあって、週に複数回、ランチをしたり、レシピを
交換したりと、楽しむというのですね


なぜ、その方がそんなふうな、素敵な時間を作れるのか
人との関係を作れるのか?
ヒントは、料理が好き、もてなすことが好きということに
あるようです
その人に会うとき、時間があるなら、ランチをごちそうしたいから
そのつもりでおいでと、言われます。そのとおりすると
どうも、その準備をとても楽しくやっていて、いっしょに
食べる喜びがわかるのです


いっしょに食事を楽しくする。これは人と仲良くなる
大きな、ポイントになることです。おいしいものを、おいしいねと
やる。「共感」ということの、一番基本といっていいと思います


人と仲良くなること。共感できること、と言い直すことが
できると、思います。小説でも映画でも、素晴らしいストーリィが
会って、感動するということ、ありますよね
恋人同士なら、その共感をもってること、そのことを、思いますね
恋人同士でない、友人とのことも、やはり、共感じゃないでしょうか


若い人に、いい仕事をして、成長してほしいと、願っています
そのとき、大事なのは、双方向で、継続的なやりとりだと
思います
たとえば、システムの仕事において、「設計」という大事な工程が
あります。この設計がよくできるかどうかで、システムのいろんな
要素、「品質」であり「操作性」また、大事なユーザとの距離を
縮めておくということが、でてきますね。


この設計について、一人の担当者がどのくらい、できるように
なってるのか?設計に取り組んでるとなれば、その技術者の
取り組み方、姿勢ということが、でてくるものとも思います


こうした、システムの仕事をして、設計が大事で、取り組む
ということ。ここの認識を共通のものとして、若い人を育てよう
そういった考えに至ることができれば、実際いろんなもの
たとえば、組織、立場といったことを超えて、協力できる
ということがありそうです


人間は、仕事だったり、そう、関係性を築くといったこと
家族になるということも、関係性を築くということのひとつとも
言えると思うのですが、そうしたことを通して、人と
絆を作っていけると思っています


冒頭に書いた、親しい人は、そうしたその生きてきた、積み重ねが
人と人が、出会い、また絆を作るということの大切さ、またすばらしさを
その人の生き方で表現してるといっていい、そういうふうに思います
だから、そのことを共感する人は、安心して、また憧れをもって
接するのだと、感じます。そうした絆を、素晴らしく思います

旅先からの手紙

旅にでて、友達にはがきを書くのが好きです
四月に奈良にでかけたとき、唐招提寺に行きました
まず、最寄り駅から唐招提寺へ向かう、川のある風景の
いい感じなこと。唐招提寺の金堂にて、三尊像をみて
自分の心に、浮かんだ、言葉。その仏様と相対したときの
自分の心の様子


そんなことを、学生のころからの、古いつきあいの、Sさんへ
また、Kさんへ、書きます
それから、ここ10年くらいで、親しくなった、Hさん、に
書きます


先日、松本竣介という画家の回顧展をみました
そのなかで、日記があって、松本は、文章を書くということが
自分の心のなかを、表現するのに、いい手段だと書き、
絵を描くということは、さらに、いいものだと、書いています


絵を描かない、自分としては、文章ということに
なりますが、特に親しい友人にあてて、はがきを書いてるときは
たとえば、その友人と相対してるときとも、またちがう気持ちで
友人に接することができるといったらいいでしょうか


今年の春に久しぶりに盃を傾けた、これまた古いつきあいの
友人Mさんに、「アートに親しむようになったこと」を話しました
そのなかで、ここ2,3年特に、気に入ってる上村松園、の絵の
話をし、また上村松園が手記のなかで、「いい芸術を生み出せる
人は、人格も例外なく素晴らしい」と書いてることを、
披露したりしていました


Mさん、その話を聞いて、おそらくはそうだなと、同意もしたのですが
少し話にスパイスを効かせたくなったらしく、長澤さん、今の
話ですが、太宰治はどうなりますか?と、まぜっかえしてくれたのです


アートを話したりということは、楽しいですね
アートのことを、話せるというのは、まさに、なにか出来事でも
そうだし、人の気持ちの描写ということもあるでしょうし
作家が、アートにしたいと、思うものはすべてそうだと
思うのですが、ひとつ、座標軸の次元といったらいいか、見えるものが
増えるという感覚があります
それは、まるで、ある世界と、複合してる別の世界があって、その別の
世界への「鍵」をもつということといってもいいですね


そんな風に書くと、どうもすごいことができてるというような
ふうな、「ちょっとエラそう」な、自分はすごいんだ的な
文章になってしまうのですね。でも、なにかを楽しむという
態度、そこには「自画自賛」という態度をもつということが
大事な要素ということも、経験が知るところです


先週、信州の道を歩きながら、山を愛でて、そして、鳥たちの
声を聴きながら、なにを、友人に伝えようかと思って
シンプルに、自分は信州が好きなんだ、ということを、思って
いました


山が見えて、空気が澄んでるように思える場所にいると
自分の身体のなかに、いいものがはいっていくような
そんな感覚があります


そうした、自分にはいった、いいものを、ちょっとだけ、おすそ分け
したい、そう思って、ペンをとってるのかなと、思うのです

信州の風景

東山魁夷が、ある人と話していての一コマ。
ある人が、電線が風景の邪魔をして、残念ですというような
話をしたら、東山魁夷は、それは「目休め」といって
電線をみないで、風景をみるようにするのですよと、話したということを
読みました


その言葉通りのことをしてるんだなと、わかるのが、京洛四季という
連作があって、そのなかでの「歳暮る」という作品のことです
京都のたぶん建物の上から(いまはそれらしき場所はホテルだそうです)
東山、鴨川の向こうの街並みを描いています
これが描かれたのは、昭和30年代で、もう相当、京都も都市化が
すすんでいて、もちろんいまより「町家」と呼ばれる、日本家屋は
それなりに多かったでしょうが、この歳暮るに描かれてるような
隣からとなり、ずっといい感じの日本家屋ということは
もうなくなっていたはずと、推測します


そういうなかで、日本家屋の美しさを描き、そのなかのいくつかには
ほのかに、明かりがともり、人々の暮らしがあるのを思わせる
そのような、絵ですね


東山魁夷は、自分のことを、風景画家と呼びます
その風景のなかには、人はほとんど、でてこない。いいえ、人が
いたという、痕跡というか、今住んでるだろうなということは
見せながら、人の姿というのは描かない


東山魁夷の言うところの、「目休め」ということができたら
ほんとに、美しいものというのを、感じやすくなるのかなと
思ったりします


昨年、信州、大町の山側。中山高原と呼ばれるそれは、山の景色が
見事な、場所に行きました。素晴らしいのは、山そのものが
美しいということがあるのですが、その山をみる、ひとつの方向の
構図といっていいなかに、人工物が入らないのです


東山魁夷の、歳暮る、もそうなのですが、いかに、とくにマンションだったり
ビルだったりという、人工物が、景観を損なうもとかという
ことがわかります


信州は、まだまだ、山の景色が楽しめるところといっていいと
思います。中山高原はその山側といっていいでしょう
安曇野という、広くて平らな、複合扇状地。これは松本平という
場所に含まれるといっていいでしょう。そのほかに、善光寺
佐久平、伊那平といった、山のなかなのに、広くて平らな場所が
いくつも、ひろがります


人が生活していくのに、家ができ、必要な建物がコンクリート
作られるのは、生きていくのに必要なのだから、それはそれで
しょうがないとも言えます。旅行者である自分は、風景を
見に行ってるという立場でついつい、ものを、言いがちです


今回、夏川草介の「はじまりの木」の文章のなかに出てくる
伊那谷の大柊というのを、みてみたくて、ぐぐってでかけて
みました
確かに、室町時代から、生き続けているという木はありました
だけど、小説に書かれてるような、空をおおうような勢いも
高さもなかった。まして、そこは住宅地になっていて、夏川の
描いてるところの、雰囲気も、風景も望めめない
そして、逆に夏川がこれをみて、あとはフィクションで
あの文章を書いたのだとしたら、小説家としての、想像力であり
構成力に、すごいなと、思った、時間でした

プロジェクトにて

(担当者)「今のプロジェクトでは、先輩はよく教えてくれるし
自分も成長できてる、と感じていて、とてもよいです」
こうした、発言をしてる、若い担当者の人に、つい「辛口」の
コメントを言ってしまいました


(自分)「あなたの報告を聞いてると、技術者だったり
技術者になりたい、という人の報告とは思えない」
「なぜなら、技術者であれば、いま取り組んでる仕事の、なにかしらの
問題点だったり、自分の課題にからんだ、なにか足らないこと
といったことの、認識が必ず少しははいってるものです」


こんなやりとり。少々私のものいいは、乱暴です
なにかしらの、問題点だったり、自分の足らないところのコメントがない
ゆえに、あなたは、技術者として、はたしてどうなのか?


でも、実際のところ、的を得てる自信はあります
プロジェクトにおける、メンバーの成長であるとか、プロジェクト自体を
よくしていくという趣旨の打合せをしてるときに、プロジェクトでは
問題ありません、うまくいっています、では、どうなのか?


技術者の技術者たる、ひとつの、よりどころとしては、常に自分の
課題を意識できてる、ということになると思っています
例えば、「設計」という工程でもあり、仕事するうえで、大事なポイントが
あります。とても素晴らしい設計ができるということは、やっぱり
積み上げてきた、いろんな仕事で得たノウハウがいかされてそうなる
ということがあります
この設計ということについて、自分の今現在の力はどの程度で
それをどう、伸ばそうとしているか?


この設計というポイントをとっても、「設計もよくできます」
などと、軽々しいものいいがでてるところで、いただけない
設計という、深い、技術者としての力量の発揮どころといった
ところで、どういう言い方ができるか?大きなことです


話は変わりまして


まだ営業が不慣れな人に、どうしたら、技術者なりと会話できるのか?
そういう話になったとき、まず「よい話し合い」をする、した、経験を
一個でも多くするということが、あります
それには、今不慣れなといった、あなたのたとえば、コーディングであり
テストといったことの、理解度といったことを、よく受け止めたうえで
話してくれる、教えてくれる技術者を見つけることだね、と、言います


こうしたことを、思うと、「人と話す」ということが好きなこと
ということが、いかに大事な、資質であるかということが、
クローズアップされます


知らないことを知るのは、楽しみなんですね
そのベーシックなところというのを、まずは自分のものとする
だんだん、いろんな話の行先が似てくるのですが
やっぱり、どこまで自分のやってることに、真剣に向き合えるのか?


「自分がやらなければ」といった、責任感とも、大きく重なる
ところでもあります


若い人に言いたい。あなたには、ほんとに大きな、可能性が
あるんですよ。その可能性を膨らむように、自分のなかにあることを
ぜひ、磨いてほしい。活かしてほしい、と、希望します