食への関心

12月4日、土曜日にシステマーズでは、「食」のミニイベントを
開きました。なぜ、「食」なのか、食=健康なのか


今、なかなか、感染症のことで、リアルに会って、なにかする
のが、やりにくい、と、みんなが思い、それぞれ工夫して
仕事する、とか、生活についても、やりくりをしますね


私の考えとしては、「学び」に「人とやりとりする」ということは
はずせない、大事な時間だ、と位置付けます
その人とやりとりするのも、せいぜい、オンライン、パソコン越しの
ことになってしまい、大事なニュアンスが伝わらない、やりとりした
人と仲良くなるのも、ままならない、と、感じます


そういうなか、希少なリアルで会う、タイミングをどう使うのか
私が思ったのは、「健康」に意識を向けてもらう。健康を守る
ということに関心を高めてもらうということでした


このイベントを思いついた、8月ごろ、イベントをやるのは、賛成して
いながら、主な参加者となる、若い社員に、どう関心を高めてもらうのか?
ここが難題といっていい、ことでした
なぜなら、皆さん若い人は、なかなか、こういってもわからないことが
多いでしょうが、若い、とても元気、少しくらい食べなくても、眠らなくても
元気でいられるような、そういう人に、「健康に関心を持とう」と
いうのが、難しいと思ったのです


やったことは、「プロ」の健康をサポートする人、保健師さんに
来てもらって、プロの観点で、情報をだしてもらう。その
インプットのもとに、話し合いを行うということでした


これ、ありふれた、手段かもしれません。しかしながら、こうした
実際、勤めてる会社のトップが、今一番気にしてることが「健康」
なんだ、ということ、そして「わざわざ」プロの人を呼んで
健康について考える時間を、作ってる。お金も使ってそういう
機会を作ってるということを、伝えようと思ったわけです


自分自身の「食への関心」について、少し書きます
もともと、食いしん坊の私。食への関心はそこそこ、高いと思います
おいしい野菜をいつも探します。野菜だけでなくて、肉、魚といった
食材全般にそうです。ただ、野菜は、スーパーで手に入るものは
結構不満が多いことが、あります。それは「鮮度」ですね
野菜の鮮度は、大きく味、に関わります


作り方、というのも、大事なことです
昨日、NHKのがってん、にて、ポテサラの作り方
応用のしかたを、やっていて、目からうろこ、ということが
ありました。私の親が作っていた、ポテサラは、りんごがはいります
結構めずらしいかもしれないですが、やっぱり、食べ続けた味、
今でも好きです。そして、がってんのなかでは、実際、ポテサラって
なんにでも合ってしまう、そういう特性があると、でてきて
はあ、なるほど、と、思いました


ポテサラなんて、身近なもの、と思っていた、食べるものが
こんなに、応用ができる、なんといったらいいか?まさに
ぼくらの味方、お助けマンみたいな存在って、言われなければ
気が付かないですよね。こうしたことも、「食」について
奥が深いといっていいことですね


さて、食べること。健康を大事にすること。ぜひ、いっしょに
やりませんか?

自分と自分の仕事に関心を持つ

他社からみて、「あ、ここ、なにか期待できるな」とそう
思ってもらえるなにかを、やるということ
とっても、大事なことです


実は、少し前、社員の何人かと話していて、自社のwebサイトに
なにがのってるのか?ということ。これを、おそらくは、ほとんど
みてくれてない、という人が複数いて、ちょっとがっかりしました


「自分の仕事に、関心をもつ」この態度は、仕事をする人
であれば、基本中の基本の態度といっていいです
その仕事をする場、である、自分の会社がいまどうなのか
会社にいる人って、どんな考えをもち、どんな仕事をしてるのか
はたして、自分自身に関心を払ってくれるのか?
こうしたことを、気にするかどうか?そして気にして
手ごたえとして、なにかを感じるかどうか?
このことは、がっつり、「やる気」を左右することだろうと
思うのです


ときどき、思うこと。社員が、やる気を本当に高めてくれたら
実際、社員が作るソフトウェアの質はあがるでしょう
そして、どうしたら、もっといいソフトウェアを作ることが
できるのか、真剣に考えるようになる、と、感じます


いいえ、誤解しないでくださいね
今の仕事の態度が、不真面目だとか、「責める」つもりで
この文章を書いているんじゃないんです
基本的な、ごく基本的な、態度として、「足らないこと」を
まずみつめてみてほしいということなんです


仕事は忙しい。忙しい仕事を休まずにやってる。
それは大切なことです。ただ、仕事というのは、常に改善していく
いいかえれば、自分自身の学びがあって、よりよくしていくという
要素がないと、必ず、質は低下します


数年前です。京都にある、「楽焼」という窯元の、伝わってる
器の展示があり、当代当主の解説つきでした
そのなかで、解説には、代々うけつがれてきた、といいますが
例えば、自分は父親から、なにかを具体的に教わったということは
ないです、と、聞きました。
「え?」と、思って、本当かなとも思ったのですが、それはきっと
本当のことでしょうね。
教えられて、伝わるもの、ということもあるでしょうが、実際
教える、教わるでは伝わらないものも、あるということを
感じます


自分自身を好きになること
自分のやってることに、関心を高く持つこと
やりとりしながら、学ぶこと
「生きたい」と、本当に真剣に、自分自身と向き合うこと


実は結構大変かもしれません
その逆をやっていたほうが、その場、当面は「楽」です
生きるということは、苦楽しい(くるたのしい)のでしょう


よくこのブログに、チームで仕事するということ、うまくなりましょう
と書きます。まずはそこから。自分のことをみつめながら
進みたいですね

シダネルを見る

シダネルとマルタンの展覧会を、山梨県立美術館に、見てきました
シダネルは、偶然にも、パリにでかけたときに、ジェルブロアという
村にいって、シダネルがいっとき住んで、庭を作って、愛した場所だと
知り、気になるアーティストになっていました


今回、はじめて、相当な数の作品を見て思うこと


「静かさ」「親しい人を、大切にする態度」


静かさ、と人との親密さ、ということ
この、二つのキーワードは、東山魁夷と重なると思っています
また、シダネルにしても、東山魁夷にしても、風景を描いていて
人物は描くということは、きわめて、少ないのですね


東山魁夷の作品のなかで、「窓」という作品があります
ここにも、人物は登場しない。だけど、この窓を
描いた風景、ドイツの古都、の、城壁の門だと読みました
この古都を訪れる人が、通ったであろう、道があって
その道を、窓がずっとみつめていたと、想像があり
その、人は描かないけど、人がいたという風景を
東山魁夷はきりとっているのだと、解説にありました


シダネルの、ジェルブロアの作った庭にある、テーブルが
幻想なのかと思う、青い、月明かりのなかに、浮かび上がる
この、人のいないテーブルは、いまそこにこれから、人が
来るということか、それとも、いままでそこにいた人が
なにかで席をたった、瞬間をとらえたのか?


静かな、シーンの一枚が、人はいないけど、親しい人であろう
その人の存在を、想像させる。そして、絵の世界が、淡い光に
浮き上がるということで、その人との、人間と人間という基本の
つながりを、大切にしてるのでは?という想像がでます


東山魁夷が、ヨーロッパを描いてるのは、よく知られてることです
そんななか、シダネルの存在を知っていたか?いまとなっては
知る方法はとても、少ないのでしょう
知っていて、影響をうけたかどうかは、定かではないですが
ヨーロッパの街角を、愛した日本画家の東山魁夷の、発想であり
絵への、思いと、シダネルの、絵を思う気持ちがどこかで
シンクロしてるのだと、思えることは、アートファンとしては
うれしくなる、偶然としておきたいですね


シダネルが愛した、ジェルブロアは、バラの村として
観光地として、パリからも人がくるようです。村の外側にかなり
大きな駐車場があって、日曜日だったと思うのですが、それなりの
人がきていて、またレストランとかも、やっていました
バラ、ほんとに、古いレンガの家に合う、とても素敵な村全体の
アクセサリーのように、なっていました


シダネルの庭からは、ジェルブロアの村が見渡せて、これも
シダネルその人の、感性ということを、素晴らしく思わせて
くれて、とてもいい印象として残っています


シダネルと、とても親しかったというマルタンマルタンのアートの
いろいろを、書くのは、またにしますが、シダネルが、マルタンという
存在を、私に紹介してくれたようで、これもまた、うれしいことです


美術館にて、うれしい時間を過ごせるのは、人生を
豊かにしてくれる。そのことを、何度目かで、実感できる、休日に
なりました

会って、やりとりをすること

古くからの仲間のひとりが、朝、ウォーキングを
はじめたという話を聞いて、うれしく思いました


ウォーキング、自分ではじめて、13年くらいたちました
「手は第二の脳、足は第二の心臓」といいます。毎朝歩いていて
ほんとうに、そうだなと思います


歩くということが、人間にとって、もっとも基本的な
生きるということにつながる、行為なのだと、思うのです
歩いて、生活の糧を得るということが、大事なことだと
思います
歩いて、人に会って、人とやりとりをするということが
学びになり、人間は進化するのだということも、思います


やりとりして、学び続けることで、人間の心は強くなるのだと
思います。強くなるということは、その機能自体、生きる
ことをしてる、心臓の鼓動がリズミカルで力強いといっていい
のではないでしょうか


チームで仕事するということが、下手になってる、自分たちを
ときどき、真剣に思います。相手がどうしてほしいのかという
ことを、理解する、感じ取るということが、下手になってしまってる
そのことを、どうしたら、止められるのか


この命題は、自由というのは、不自由なときに自由になりたいと
思ったときに、一番感じられる、つまりは自由になれるという
話に、似てるポイントで考えれば、なかなか人と会えない状況
ということを、逆手にとって、会うということが、いかに
貴重なことかということ感じながら、やろうと、思います


はたして、どうやりますか?
それは、やっぱり、一期一会といっていいか、いかに
会うのが、難しいかという認識をお互いもって
この時間を大切にするんだと、思って、いっしょに
過ごすということでしょうか?


人間は、豊富に使えるものがあれば、ぞんざいにやっぱり
使ってしまうという傾向がある。「会える」時間というのが
貴重なのだという、認識をしっかりもつということ、ここから
ですね


チームで仕事するということが、下手になってると
書きました。ある事象、ある概念、ある誰かの考え
そういったことを、掘り下げるという考えが下手になってる
という、見方もできるなと思います


チームで仕事をする。ある成果物を作るということ
このことについて、相手と協力して、作り上げていく
勤勉なこと、寛容なこと、あわせもった、人間としての社会力を
発揮しなければ、うまくいきません
この社会力が落ちてしまってるので、時間はかかっても、社会力を
ひとつひとつ、積み上げるということも、やりながら、やる
ということが、とても大事なのだと思います


社会力は、まさに、相手とやりとりするときに、ちょっとした
配慮ができたり、相手がなにを、いま欲求があるのかという
ことを、感じたり、またずれたり、どこかで間違いをしたりで
あやまったり、仕切り直しで、やる気を高めたり


大事なことはたくさんあるのですが
なかなか、しっかりやろうとすれば、やっぱり、トレーニングも
重ねなければ、できないでしょうね


会って、やりとりして、学ぶこと
大事です

音楽を楽しむ

古都、鎌倉は10代の時から遊んだ、好きな街です
鎌倉は、古都というだけあって、寺が多いです
つい、詩人のまねをして、お寺の静かさをうたいたくなる
そんな風情の、場所がありますね


さだまさしの、名曲といっていい「縁切寺」、歌詞を
思い出してみると、いかにも、古都らしい、そして
デートしてる若い二人が浮かび、そうなのだけど、恋は
実らず、女性の方から、別れをつげると、なります


あ、これ、歌謡曲なんだなと、ふと、思い出してみて思うのです
フォークソングとか、そんな名前で呼ばれていた、また
シンガーソングライターって言う、自作自演でやる、人たちが
でてきた、1970年代に、まさに、最初の音楽の楽しみを知った
自分は、なんとなく、歌謡曲と、フォークソングはわけていたのです


だけど、いま歳を重ねて、見て思うに、そのときの、時代の気分
といったことに、まあ、若い人の、幼いとも見える、恋のひとかけらを
混ぜて、歌う。まさに歌謡曲じゃないかって、思います


大好きな歌のひとつ。ユーミンの、「海をみていた午後」
この中の、「あの時目の前で、思い切り泣けたら
いまごろ、ふたりここで、海をみていたはず」なんてあるのですが
ストーリィテラーとして、優れてるユーミンの、才能が
発揮されてるところといってもいい。
こんな恋をして、こんな、すれ違いで、その痛みに耐えてる
自分に、「酔ってる」ともいえる、そういう、場面の設定です


少女の、あこがれといったことと、山手の海がみえる風景を
コラボさせた、詩なのですね。だけど、たとえば、絵が
一枚の絵として、なにかしら、みてる人の心に、すっとした
感じだとか、心のやすらぎだとか、元気がでるとかそうした
なにかが伝わるってことが、すごいこととしたら
詩であり、歌謡曲と思えても、その世界が、何かを、聞いてる
人に、与えてるとなれば、それはそれで、やっぱりすごいと
いっていいでしょうね


謡曲が、売上等、ピークをむかえた、1970年というのは
おそらくは、なんて、すごい、日本が成長していて
みんなが、自分が大人になったら、豊かに幸せになると
信じられた、いい時代でしょうか?


「信じられた」ということが、大事のように、思います


翻って、おそらくは、平成生まれの人は、これから、自分は豊かに
なっていくと、信じられないということがありそうです


これは、ほんとに、深刻なことといっていいかもしれません
その認識をなしに、若い人に接するのは、ぼくらが、もう
戦争なんてない(と、それこそ信じたいね)のに、おまえたちは
戦後のきびしさをしらないから、だめだとか、話ができないとか
いわれた、まさに世代ギャップを感じた、自分たちと同じことをやってる
と、思ったほうがいいかもしれません


さだまさしも、ユーミンも、それから
谷村も、サザンだって、大事な、自分の一ページを彩ってくれた
アーティストでしょう
そういう、人に、もらった、色彩、エネルギー、リズム感といった
ものを、忘れずに、新しい鼓動も、自分の快いBGMとできちゃう
ような、そんな生きてる様子をやりたいと、思うのです

野沢温泉

野沢温泉が、外国人に人気と聞きます
このところの、感染症のいろいろがあり、外国人は減ってしまったようです
2年ほどまえに、でかけたときは、え?ここは日本なの?というくらい
外国人が多かったのです


理由はいくつもあるようです。そしてその理由のうち、日本人でも
いいなということが、いくつもあるのだということを、知ります
温泉がいい、スポーツ(スキー)ができる、そして、おそらく
一番いいのは、日本の地方のもつ、あたたかさ、なつかしさと
いったことなのだろうと、思うのです


「都市化」ということ、世界中で進んでるのだと思います
都市、街になるというのは、便利さ、ということ、また仕事がある
ということで、もちろんいい面もあるのですね
一方、都市化すれば、ビルやマンションが多くなり、そういう
意味では景観は変わります。そして、人の行き来がふえて
住む人も多様になっていきます。つまりそれが都市化と
言っていいのですが、失うものもあります


代々同じ場所に住んでるとか、同じ場所で育った人が
ずっといるとか、また、景観が変わらない(高い建物なんて
ない、のどかな風景がひろがってる)
人が少なくて、時間がのんびりしてる
また、もうひとつ、信州ではそうだと、本で読んだのですが
いいえ、信州だけでなく、日本の地方のいくつも、そういう
場所はあるのだと思うのですが、手作りのお茶うけを、もちよって
話をする、習慣があるということ、を、思います


野沢温泉のお気に入りの宿、住吉屋では、ご飯のときに
「とりまわし鉢」といって、いくつかの郷土料理を
だしてくれます。
いもなます、ぜんまい、きくらげ、ジャガイモの甘辛煮
など、とても素朴なものなのです。そしてこれらは、人が
集まるときにだす、御馳走だったと、聞きました


野沢菜、は、各家で作っていて、どこもちょっとずつ
味が変わると聞きます。さきほど、書いたお茶うけ
野沢菜は定番で、何人か集まれば、複数の野沢菜がでる
そうなのですが、それはそれ、全然いいというのです
ちょっとずつ、味がちがう、その違いを楽しんでるということ


お茶うけをもって、集まる。そういうことができるのが
地方のよさ、といっていいのかもしれません
あくせく働く、1分を惜しんで、なんていうのは、どこにも
なくて、のんびりと、過ごせる、そういう日常がある
ということ。


そんなこといったって???
そう、いま、忙しく東京に通って、忙しいのがあたりまえの
生活を送ってる、自分だから、野沢温泉を代表する、日本の
地方がいいと、のんびり、がいいと、のんき、に言うという
ことがありそうです


生きていく、というのは、とっても、厳しいことなので。


ただ、忙しくしていても、人間を大切にするということを
一番目に思い、人と人のやりとりから、うまれてくるものを
ていねいにみつめてること、など、そうした、態度はずっと
もってるようにしたい、とは、思います


冬がくると、あたたかいものがほしくなりますね
それは、あたたかい鍋とか、そうした、実際生活のなかで
リアルな温かさ、ということと、人と人のふれあう
温かさ、両方あったら、最高にいいな、と、思うのです

営業はいい仕事

なぜか。ひとつめ。成果が見えやすいことです
営業の成果は、数字に出やすいのです(時には、「数字」さえ
あがっていればいいんだ、と、考えたくなりますが、それは間違い)
ゆえ、「手ごたえ」ということが、わかりやすい


もうひとつ。それは、やはり自分を成長させられるから
といっていいと思います
成長のためには、「気づき」があることが前提です
いかに、気づけるか?


簡単な例をあげたいです
例えば、「敬語」ということ。自分の敬語、はたして、相手に
快く響いているのか?自分がやりたいことを、そこに、ある種の共感が
あって、協力してくれる。そういうことを、やる、そういう場面で
そうした相手をさがして、行動してもらう。それが営業と
いっていいですね。スタートに「尊敬」があってほしいのです


尊敬があるからこそ、相手が、じゃあ、それに答えますよと
なると、感じています


そうなると、「共感してくれる」ということが、ますます、大事に
なります。昨日、パン屋さんに行きました。寒い日です
その寒い日に、わざわざ、買いにくる、こちらの気持ちを
売る人は受け取っているのか?うれしいことに、昨日は感じてくれる
人がいたようです。にっこりします


敬語、実は苦手だな、と、思う人、たくさんいると思います
そうしたとき、どのように、するか?まずは、自分が敬語苦手だなと
素直に認めるのです。そうしてしまえば、敬語をうまく使ってる人に
出会ったとき、学ぼうとするものです
苦手、苦手と、ふわふわと、思ってると、敬語がでると、毛嫌いする
といったことになってしまうかもしれません。それじゃいつまで
たっても、共感するということの、うれしさに、近づけないことも
ありそうです


こんなふうに、書いていると、営業って、まずは「人間への興味」が
高くあること。これって本当に大事、と、見えてきます
人間への興味が、連続してあるから、ある人がとてもいい志で
生きてるということの、輝きがほんとうに、輝いて見える
もちろん、素晴らしい人に感動して、すごいなーとかやり続けるのも
それはそれで、エネルギー使うということもあって、そんなの
面倒だと、思ってしまう。そういう、悪いスパイラルといっていい
自分の気持ちが働いてしまう。そういうことも、あることを
私も知ってるつもりです


じゃあ?となるのですが。
生きることを、真剣に思う時。なにがつらいのか、ほんとうの
意味で知ってるのか?と、問う、という気持ちになります


さて。営業の話
ここ1か月くらい、若い、他社の営業さんと会う機会が増えてきました
ちょっとだけ、先輩として、まず思うこと。営業をやって、よかった
という仕事を、ひとつでもしてほしいな、と、思うことです


人と、人。当然相性もあるわけだし、育ってきた環境が違えば
微妙なニュアンスで、言葉って変わってしまいます
だから、慎重かつ、敏感に、相手の言葉を聞き、いいやりとりをしたいと
願います